直観ひとりごと(43)こどものいじめは大人の縮図、責められるべきは?
この(43)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(43)
◆こどものいじめは大人の縮図、責められるべきは?
またまた、いじめで群馬県の女の子が自殺!
いじめは「差別」です! 死者が出れば、紛れもなく、「いじめ殺人」事件です。
モノゴトの本質を見るには、キチントした概念で表現しなければ…。
今回は、いじめ問題=差別問題=人種問題=いじめ殺人、なのです。
「いじめ=差別」は、日本人の陰湿な負の遺産であり、永い永い暗黒の歴史がある…。
「みんなでいじめぬけば、罰せられない!」
だから、決してなくならない、のです。
いじめを行った加害者(子どもたち)の首謀者(保護者=両親)たちに、殺人という罪の意識がなければ、決して、無くならない!
そして、共犯者(教師や委員会)たちが、心から悔いて、必死で撲滅する意志と行動がなければ…。
もっともっとエスカレートする!
要するに、いじめた生徒も、両親も、教師も、教育委員会も、れっきとした、加害者=犯罪者なのです。ある意味で、関接的にでも…。
死者がでたら、関係者は、全て「殺人」に関与した共犯者となるのです!
共謀者、共犯者、首謀者等々…。
言語って、とても大切です、言い回しが変われば、そのモノコトのイメージがゴロッと変わる、怖いですね~。
意識のイメージって!
その学校側は、いじめの事実は認めたが、因果関係は「わからない」と否定した、そうです。
いじめがあるのに、それが原因の自殺でなかったら、なんともおかしな話になりますね~。
被害者がいて加害者がいない事件なんてあるの?
加害者が存在するから、被害者と呼ばれるのでは?
「いじめの加害者」とは、いじめをしたその人間が加害者そのもの、犯人では?
たとえ、子どもであっても…。
いじめをした子どもたちが加害者、この事実から目を反らせたらいけないのです。
加害者とは、間接的殺人者なのです。
今回は、陰湿極まりない、もっとも悪質ないじめです。
クラス全員が参加のいじめとは、本当に恐ろしい!
全員でたった一人の子どもをいじめ抜くなんて…。
日本人のすることか? 人間の子のするこっちゃあねえ! と言いたいです。
いじめをした子どもたちに、自分たちが加害者、いえ、殺人犯人だということを、きっちり、知らさなければ…。
尊い人の命を奪った殺人者なのだということを…。
そして、罪の意識を感じさせねば…。
皆さん、私の意見はきついでしょうか?
それとも、加害者である、犯人である、子どもたちがかわいそうですか?
だったら、まず、いじめをした子どものお母さんに問いたい!
あなたのがけがえのない子どもが、過激ないじめにあって自殺しても、私の意見はきついですか?
また、全国の子を持つすべてのお母さんたちに問いたい!
あなたの大切なお子さんが、いじめにあって自殺しても、やっぱり、私の意見はきついでしょうか?
それでもきついと感じる人は、勘違いしてはいけないのです。
人間の魂には年齢は無い、のです。
身体や精神は子どもでも、魂は、立派な大人なのです。
というか、魂には子どもとか大人とかいう概念はないのですね。
もう一度、言います、魂には大人も子供も関係なのですよ。
なぜならば、魂には時間も空間もない、魂は永遠だから、だから、年齢もない。
でも、今世紀で人間としての終りの魂の人もいますが…。
そうならないために、きっちり、けじめを付けさせるのです。
自分のした行為には、きっちり、責任を取らせる、償いをさせるべきなのです。
要するに、「魂」を改心させるのです。
そのイジメをした子どもたち、すなわち加害者たちに…。
けじめですよ、いじめではないですよ。
罪を犯しても、何のお咎めもないなんて、そんな社会はおかしいのです。
子ども社会でも、れっきとした人間社会なのですから…。
決して、動物の社会ではないのですね。
そんな子が大きくなっても、ロクな人間にならないのです。
結局、遅かれ早かれ、親が泣く羽目になるのですよ。
あるいは、この日本を食い物にする人間になるかも…。
なぜなら、悪を悪と感じない子どもたちだから…。
子どもたちに英語や商売やお金の価値を教育する前に、人間としてのあるべき道、「人間の道」を教えなければ…。
ここからが、重要です。
潜在意識の直感心理カウンセラーとしての解決策です。
イジメをした子どもたちの「魂」に、子どもたち自身で、反省させるのですよ!
魂は痛まないのかと!
このまま、知らんふりをして生き続けるのかと!
「内観」させるのです!
それには、子どもたちだけで全員、反省会をして、死んだ女の子の霊と対面させるのです。
そんなこと、できないって、いえ、できるのです。
人間の魂をもっているのならば、どんな子どもでも…。
それは、彼女をイメージするだけでいいのです。
全員で、しかし、一人ひとりの魂で…。
そして、全員で、ひとりひとりが、彼女に陳謝するのです。
心からの、いえ、魂からの…。
それには大人の介入は無用!
たとえ、教師といえども、いえいえ、教師だからこそ無用!
女の子にとっては、救ってくれなかった教師を一番恨んでいるでしょうから…。
勿論、子どもたちの両親も無用!
彼らこそが、一番の首謀者なのですから…。
問答無用! かな。
要するに、子どもたちだけで罪の償いをさせるのです。
イメージ、意識の世界で…。
以心伝心、それで、きっちり、死んだ彼女に伝わるのです。
魂がある人間だから…。
そして、彼女の位牌に心からのお詫びをして、手を合わせるのです。
クラスの全員が…。
お墓参りする子もでてくるかもしれません。
それで、彼女は報われるのです。
綺麗な、清らかな心(念)で、あの世へ旅立って行けるのです。
現代は、心の時代、精神の時代、だから、悪い念のほうが強烈な力を持つのです。
この世には、良い念ばかりではないのです、怨念のほうが多いのです…。
だから、精神、魂、霊のレベルで対処しないと…。
そうでないと…。
今回のいじめは、母親が日本人でないという報道も一部でなされていますが…。
殆どのマスコミはその問題には、一切、触れない!
問題は、思ったより深刻です。
差別問題、人権問題に関わるのですから…。
なぜ、私が、両親、特に、母親が首謀者かというと、私の会社の社長のお孫さんの話で恐縮ですが、今の子どもよりも、両親の方が酷い、目に余る、らしいのです。
学校の責任を問う前に教師よりも、保護者の責任を問わなければいけないのです。
「保護者」なんて、おこがましい。保護なんて、殆どしていない。
保護者の監督不行き届きも甚だしい。
両親は、保護者ではなく「保身者」、いえいえ、「いじめ人間製造者」です。
特に、母親は…。
そのお孫さんの幼稚園では、あの子はマンションの子、この子は一戸建ての子、だから、マンションの子とは遊ばない、遊ばせない、って!
また、遊び時間には、マンションの子たちにネコの真似をさせて、虐げる、そうです。一戸建ての子全員で…。
幼稚園の幼児に、マンションと一戸建ての違いが分かるのか?
それで格下げするとは、ホント、もう、幼児の精神ではない?
分かってやっているのでしょうか?
理解に苦しみます…。
とにかく事実であり、幼稚園の時から、そういういじめが蔓延っている。
これって、一体、誰の影響なのか?
誰がそういうことを教えるのか?
先生ですか?
いえいえ、子どもは教えなくても、全て両親、特に母親の真似をして成長するのです。
子どもには、正悪の判断基準がないのです。すべて吸収してしまう。
だから、母親が差別するからにほかならない、のです。
今の子どもの話し相手は、兄弟姉妹がいないので、親、特に、母親です。
だから、母親と同じ感覚になるのですよ。
母親の意見、意志に、もろ左右される。
母親の意識が子どもの意識にインプットされる、無意識で…。
だから、いじめの元凶は、保護者の親、特に母親…。
保護や躾けもしないで、ただ甘やかすだけの親が…。
仕事で、子育てできない疾しさ、後ろめたさで、甘やかして過保護にしてしまう。
「躾ける」なんてサラサラなく、ただただ私物化にするだけなのです。
要するに、親は育児に自信がないので、自信をもって躾けや育児教育ができない、のです。
そして、もちろん、教師も…。
自信の欠如は、誇りの欠如です!
また、小学校では、生徒会に立候補する子を仲間外れにするなんて、当たり前の、日常茶飯事、だそうですよ。
自分たちは、立候補したくないけれど、目立つ子は絶対許さない、なんて!
ほんとうに子どものやることではない、想像できない、信じられない状況が…。
教師も悪いでしょうが、やっぱり、両親、特に母親の問題でしょう。
躾けのできる母親が皆無!
当たり前なのです、道徳と倫理を教育されなかったのですから…。
「神になる道」を、いえ、「人間としての道」さえ教えられてこなかったのだから…。
自分さえ良ければ、何をしてもいい。
そういう、自由しか…。
他人の迷惑なんて、どうでもいい。
しかし、自由には義務と責任が伴うのに、それは無視された、意図的に、故意に…。
そういう民主主義を植え付けられた、洗脳されてしまった…。
だから、躾けは全くできないけれど、差別はきっちりする人間、主義主張の強い人間が、大多数を占めて、その結果、彼らの意見が正当化される。
これが、多数決の論理です。
今の日本の民主主義の現状です。
一億総愚民化作戦が、大成功した結果です。
そして、いじめも正当化されてしまう。
しかし、いじめは「差別」そして、人権問題なのです。
それを払拭しようと、人権派の教師は、差別用語はいけないとか、競争はいけないとか、うわべだけのきれいごとでやってきたのではなかったか?
どうでもいい、言い方や言い回しばかりをやり玉にあげて…。
お偉い先生方は、結局、口先だけで、それを増長させているのです。
だったら、教育委員会や日教組なんていらない!
私は、昔昔、大学受験に失敗して、夜間の短大の保育科に通っていました。
昼間は、大阪のど真ん中、難波の精華幼稚園という所で助手としてアルバイトしていたのです。
大人は嫌いだったけれど、動物と子どもは大好きだったので…。
ところが、場所ガラか、南の繁華街なので商売人の親が多く、その子どもたちの、オマセなことといったら、まあ舌を巻いてしまう!
子どもたちは、「お金持ち」かどうかが、全ての評価の基準!
そうでなかったら、人間じゃあ~ない! って感じ!
そうして、やっぱり、貧しい子どもがいじめられるのですよ。
私はそういうときは、やっぱり、いじめられる子が可哀そうで、ついついその子の肩を持ちたくなる。
いじめられる子が気になってしかたがない、のです。
要するに、これも一種の精神的贔屓でしょうか。
結局、私は、どんな理由であれ、自分は、幼稚園の教師には向かないと、悟ってしまったのですね。
わけへだてなくできないのです、いえ、心理的に、精神的に、ですよ。
そうこうしていると、教員室では休んだり、席をはずしたりする同僚の先生に対しての悪口が飛び交うのです。
噂に上がった先生がそんなに悪いのかと思いきや、違う先生がいなくなると、今度はまたその人の悪口がエンエンと…。
要するに、欠席裁判!
私は、その当時は、今と違い(?)口下手で、その輪の中に入っていけずに、下を向いて聞いているだけ…。
まるで、私がその話題の人物かのような心境で…。
また、たとえ、口達者だったとしても、私の助手の身分では、反論なんて、到底無理な話しだし…。
一種のストレス解消というか、「みんなで罵れば怖くない!」の先生たちでした…。
そして、先生たちの受けの良い両親とは、贅沢な「付け届け」をする親なんですね。
賄賂も、永い永い歴史の日本人の負の遺産、なのか?
お歳暮、お中元の風習があるから、その延長で、「悪」とは思わない。
そういう負の遺産があるから、お歳暮、お中元が廃れないのか?
「卵が先か鶏が先か?」
そして、そういうお金持ちの子を、贔屓にするのですね。
教師は…。こぞって…。
だから、ますます、そういう子どもはのさばって、貧しい子をいじめるのです。
全て、大人、両親や先生の影響です。
かくて、私は、6ヶ月で、軽い胸の病気に…。
これぞ、「病は気から」、を実践したみたいですね~。トホホ…。
あえなく、退職とあいなり、結局、短大も何の未練もなくサッサと中退。
幼稚園教員になる気もないのに、短大を出ても仕方がないでしょう、ただの肩書き人間では…。
肩書なんていらない、という心境でした。
思いきりの良いのは天下一品、でしょうか。単純なだけ、なのかも。
その時、感じたのですね。
子どもは、親と全く同じ真似をし、全く同じ行動をすると…。
だから、誰の子かすぐに分かるのです。
姿形、顔も似ている、当たり前かあ~。
子どもは親の分身です。
だから、子ども社会は大人社会の縮図!
人間の子どもでも、最初は、猿と同じなのです、だから人間としての躾けが大切なのですね。
いくら尊い魂でも、この世に生を受け、人間的に育てなければ、よい魂も発揮できないのです。
それを怠れば、動物と一緒!
親真似で育ってしまう。
特に、親の醜い部分は、余計に真似る、無意識に…。
だから、恐ろしいのですね。
そして、大きくなって、90%以上の子どもが親を、特に母親を嫌うのです。
それ以上に、憎むというか。
そういう子どもが、悩める若者に…。
結局、女性の敵は女性、いえ、男性の敵も男性。
法則通り、同質は反発しあい、異質は引き合う。
ひょっとして、群馬のいじめの張本人は女の子かなあ~。
そうであれば、ますます、どうにかせねば!
そういういじめた子が大人になって、そういう母親になり、また、そういう子を産む…。
そして、延々と「いじめ」「差別」の歴史は続いていくのでしょう。
もし、そうであれば、この変革期で日本民族はなくなるかも…。
それも仕方のないことなのでしょうか。
地球の害虫と同じように、日本民族も害人(ガイジン)として、自然淘汰されるのが、いいのでしょうか?
このブログも、批判するばかりでは何の意味もありませんので、最後に、いじめをなくす方法は、まずは、いじめられた子どもだけを保護する、学校でない場所を国が作ることです。
隔離するというマイナスの概念ではなく、昔の精神修養の道場のような、厳かな場所を用意して、じっくりじっくりお酒が醸成するるように、気長に、彼らを養成することが必要ではないでしょうか。
それは、公のもと、豊かな環境で行うべきなのです。資金を投じて…。
しかし、くれぐれも、西洋式のアカデミックな方法や人間では、人間の魂は、癒されませんよ。
上から目線では、人間の魂は癒されないのです。
魂を癒すとは、精神を鍛えることです。
まずは、いじめにあう子を、一日も早く、健全で安心できる場所へ避難させることです!
そういう場所ができれば、私もお手伝いしたいくらいです。
それが実現すれば、きっと、悩める人たちも少なくなるでしょうから…。
そして、母親が躾けができないのであれば、「躾けトレーナー」あるいは「躾けサポーター」あるいは「躾けヘツパー」等、今の保育士ではない、躾けに重点を置いたモノを作るべきです。
高齢者の男女をそれにあてると雇用対策にもなります。
高齢者のための「ヘルパー」ができたのだから、「躾けヘルパー」も作り、いじめを一掃するのです。
もちろん、彼らは先の道場にも派遣してもいいのですね。
こういう資格や制度は、余り公的に縛ってもだめで、緩やかな、民間的なモノにする必要があるのです。
よく官民でと言いますが、その民は一流企業の民ばかりなので、公に近く、そのアイデアも、庶民の血が通っていないのですね。
アイデアとは「愛であ」る、もっと庶民のアイデアと知恵を活用しましょう。
ありがとうございます!
笑顔で!
大丈夫!
幸せです! と、唱えましょう。