直観ひとりごと(45)昔の「花嫁修業」にも意味がある。
この(45)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(45)
◆昔の「花嫁修業」にも意味がある。
今日は、結婚前の「花嫁修業」のお話です。
昔の日本には、結婚する前に、「花嫁修業」という風習というか習慣がありました。
昔の「花嫁修業」は、結婚前の娘さんが、お茶やお花の教養や料理の腕を磨くために、盛んにおこなわれていたのですが、今は…。
現在も一部にはあるのでしょうか。
あっても、余り問題にされないというのは、なしに等しいのでしょうが…。
習っても役に立たないというわけで、廃れていったのでしょうか。
要するに、昔は、結婚準備というような意味づけで、花嫁修業の名のもとに、習い事をしたのですね。
結婚に対する「心構え」というか、「精神的準備」も大きかったのです。
確か、出産の時も病院主催の出産教室で「ママになる心構え」を教わったと記憶しています。
それが女性からの反発からか、いつの間にか、花嫁修業等の「しきたり」も影をひそめてしまったようです…。
公にそういうことを口にすれば、勇ましい女性たちから、大目玉を食らう羽目になるので、世の男性たちも、反論できなかったようですね。
昔、一時期、男女平等を叫ぶ女性議員がもてはやされたりして、それに輪をかけたのです。
そういう女性の余りの威勢のよさに、一般女性も何も反論できなかった…。というよりも、こぞって応援した人々もいたのですね。
しかし、そういう風潮は、いずれ下火になるだろうと感じていた人々もいたのではないでしょうか?
昔ながらの賢い「ヤマトナデシコ」たちは…。
私は、良し悪しは別にして、仕事をしても、最終的に、結婚する人も多いのだから、花嫁修業も、それ自体が好きであれば、もっと、「正々堂々」とすればいいのにと、感じるのですが…。
古い考えでしょうか?
「花婿修業」も女性差別と言われかねませんが、男性もしたい人はすればいいのでは?
男性は「花婿修業」と名づけて…。
「イクメン」なんていう言葉もできる時代なのだから…。
「イクメン」よりも、「花嫁修業」や「花婿修業」のほうがずっと結婚生活には役立つ「しきたり」ではないでしょうか。
したい人はする。したくない人はしない。
「イクメン」も同じ。
昔、週休二日制が、まだ定着していなかった時期、政府や自治体がヤイノヤイノと宣伝しましたが、アメリカに住むビジネスマンの話では、アメリカではそういう意識はなくて、過酷な条件で働く人も多いということでした。
しかし、アメリカ人は、強制されるのではなく、自ら好きで働いていたようですが…。
週休二日制が完全に導入されたら、いずれ日本は世界経済から置いてきぼりを食らうだろうと…。
それに乗せられ、今や日本は…。
今回の「イクメン」も、どうやら政府民主党の戦略のような気がしてなりません。
日本人を腑抜けにするという…。今回は、アメリカの指示ではなくて、中国か韓国か?
とにかく「イクメン」日本経済が弱体化する戦略(?)には間違いない?
話をもとに戻します。昔、昔の「花嫁修業」は、精神性を高めることを目的にしていたのではなかったか?
要するに、「花嫁修業」をすることによって、精神安定になるのでしょうね。精神的余裕というか…。
日本人の求める精神性を極めるという意味にも…。
だから、お花やお茶には、「道」という字が付くのでは?
そして、その「道」が付くモノには、必ず「正座」が要求されました。
この「正座」がクセモノ、というか重要なのです。
「坐禅」でも胡坐ではなく、正座でないと効果がないそうですし…。
だから、昔の「道」と名がつくものには、必ず、正座が取り入れられています。
花嫁修業の「茶道」や「華道」には、きっちり正座が…。これが重要なのですね。若い女性には…。
国際的に普及した、柔道には、試合の時、正座が取り入れられていないから、まるで、クリープのないコーヒーみたい、いえいえ、もっと、形骸化してしまい、本来の柔道とは似て非なるモノになっているのでは?
まあ、とにかく、「正座」を日本人からなくした、建築様式にも問題がありますね。
日本人の感性って、いろんな要素が影響しあって、「日本人」を形成しているのですね。
だから、一つでも無くなれば、それは、昔の日本人とは似て非なる日本人になってしまうのでしょうね。
「茶道」「華道」などといいますが、日本料理は「料道」といわないのは、「正座」が入っていないからでは?
これから料理する前に、「正座」で精神統一してから、料理に取りかかれば、「料道」といえるかも?
日本料理を修得したい外国人もいるので、つくる人の精神性も大事なのでは…。
また、たとえ、花嫁修業でも、茶道や華道を極めていけば、外国人からも教えてほしいと懇願される可能性も…。
料理でも、本格的な日本料理を修得すれば、それはそれで手に職を持つことにもなるのでは?
これからは、花嫁修業なんてバカにしていたら、日本贔屓の外国人から、日本文化を学ぶ羽目になってしまいます。
坐禅なども外国人が教えている例もありますし。
着物の着付けも、外国人のお相撲さんから学ぶなんて、ね!
とにかく、花嫁修業は女性差別なんて、目くじらを立てずに、日本人の還るべき寄りどころとして捉えられればいいのではないでしょうか?
この現在の状況では、多くの女性が働くことに不安と疑問を感じる人も多いのです。
その結果、仕事よりも結婚願望が強く、また、実際に、安易に結婚に走る人も多く、そうかといって、結婚生活に自信もなく、一体、どう生きていけばいいのか、精神的に彷徨っているような感があります。
安易に、できちゃった婚で子どもを産み、そして、産んでしまえば、今度は育てるのが億劫だから、安易に働きに出る。
そして、夫とも子どもともコミュニケーションもとれず、次には自由を手に入れたくて、離婚を考える若いママも多いと聞きます。
こういう環境から、子どもたちのいじめもドンドン発生してきますが、母親は殆ど知らないことが多いのです。
「いじめられる子」も「いじめる子」も、孤独なのです。
いじめる子たち同士で、つるんでいても、一人ひとり孤独で不安なのです。
母親は全く蚊帳の外…。
その母親自身、孤独の海で彷徨っている、のですね。
こういう現象は、紛れもなく、社会現象化しています。
老いも若きも、精神の徘徊が、蔓延しています。
自分の生きる目的? 意味は? 使命は?
自分は一体、何のために、仕事するのか?
何のために、結婚するのか?
何のために、子どもを産むのか?
それが全く分からない。
昔の人は、考える余裕もなく、ただ、生きて、結婚して、子どもを産んだ…。
彼女らは、考えても無駄なことには、考えないほうがいいと悟っていたのでしょうか…。
自然の環境に逆らわず、自然に身を任せたのですね。
その揺らぎない強さというか、精神は一体、どこから来ているのでしょうか?
遺伝ならば、私たちにも、それが備わっているのだから、もっと、「堂々と」自信を持って生きられるはずなのですが…。
哀しいかな、西洋の物質文明を取り入れれば、豊かな文明になると信じて、ガムシャラに突き進んできましたが、どうやら、限界線に達している感がありますね。
物質が豊かになればなるほど、精神は貧しくなるようですね。
これって、絶対、おかしいのです。
進化の過程からは、遠く離れていっている。
逆方向に進んでいるのかも…。
いえいえ、まだまだ最終段階ではないのではないでしょうか?
物質と精神がぴったりドッキングしないと、理想の世界に到達しないのではないでしょうか?
今の世だからこそ、自分自身の精神と、しっかり、向き合える人が、これからの物質と精神とが和合する時代に生き残れる人だと信じます。
それができた人だけがさらに上につけ抜けることができるのでしょうか?
だから、精神を鍛える意味でも、花嫁修業を、そういう位置付けとして考えるのも一案かも!
ありがとうございます!
笑顔で!
大丈夫!
幸せです! と、唱えましょう。