直観ひとりごと(47)日本の水に流す「国民性」は貴い。
この(47)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(47)
◆日本の水に流す「国民性」は貴い。
お正月には、必ず、天皇陛下の存在がクローズアップされます。そして、国民の前にお元気な姿をお見せになられます。
国民は、その元気なお姿を拝見し、今年もまた頑張ろうという気になるのでしょう。
天皇陛下は、国民のための象徴であり続けていただきたいと願ってやみません。
どこかの一平卒である政治家が、自分の権力維持のために他国の政治家に天皇陛下を売る(会談させる)なんてことは、もっての他ではないでしょうか?
ところで、私は、天皇制には、賛成であり、必要だと思っています。
今、現に存続していることが、何をかいわんや!
神がその存続をお許しになっているのでは?
世界の大戦争で日本が負けて、敗戦国の長であったヒットラー、ムッソリーニ、ヒロヒトの三人が極悪人となり、二人が断罪されても、結局、日本の天皇だけは生き残りました…。
私は、死ぬよりも生き続けるほうが、大変だったと思っています…。
死ぬほうがどんなに楽で、簡単なことか!
きっと昭和天皇も、国民のために自決したかったのでは?
例え、絞首刑にされても、生き恥を晒すよりは、と。
いえ、何よりも国民のために死を決意されていたのでしょう。
しかし、そう望めば望むほど、敵国は、思い通りにさせないのでは?
だから、生かし続けることを選択したのでしょう。
アメリカの戦略で生かしたのですね。
その方がアメリカにとって得だったのですね。
ヒットラー、ムッソリーニ、ヒロヒトの三人の大きな違いは、「国」のコト、「民」のコトを思う意識があったかいなや? が、神(宇宙)からの意志が左右したのでは?
そこをよくよく直感しましょう。
特に、日本には死の美学がありました。
武士には切腹というしきたり、いえ文化(?)もありました。
死んで花実を咲かせたいと願った民族だったのです。昔は…。
今の日本人と違って、命なんて惜しくなかったのです。
命よりも魂で生きたい人たちだから…。魂の尊さを美化していたのでしょう。
戦国時代には武士の当主は、負ければ自害して果てたのです。
そういう意味では、天皇もそういう道を歩むこともお考えになられていたのは、当然でしょう。
でも、そうはなさらなかった…。できなかった…。
生き残った、責任をとらなかったということが、今でも、天皇制反対を唱える人が多いという原因でもありますが…。
しもじもの浅はかな考えです。
昔の日本人は、死ぬ方が生きるよりも楽だったのです。今の時代と違って…。
そういうしきたりのなかで、敗戦からずっと、生き続けられた天皇陛下は、どのような思いで生きられたのでしょうか…。察してあまりあります…。
弁解なさらないということの凄さを、日本人は真摯に受け止めるべし…。
まさに、言葉言霊、言揚げされずに、じっと耐えられた…。
戦争の責任を取るのは、天皇陛下を利用して、ずるずると負け戦を国民に強いた実際の軍の権力者たちなのです。
東京裁判で死刑になった権力者たちは、裁判にかけられる前に、潔く、切腹して自決すべきだったのです。
命をささげるべきだったのです。それが責任者の責任の取り方でしょう。
多くの国民を犠牲にしたのだから…。
罪があるとかないとかの問題ではない。
トップが取る責任なのです。自分の命を捧げるのは…。
それをおめおめと生き恥を晒して捕らえられるとは…。
だから、引き時も、散り際も、わからなく、日本国民を不幸のどん底に落としこんでしまったのです。
そういう意味では、やはり罪なのです。
戦勝国に対しての罪ではなく、国民に対してでもなく、それは、己に対しての罪なのです。
靖国神社に祭られていることにも、やっぱり、ちょっとおかしいのでしょう。
今の日本人には理解できない。
その不幸が今も延々と続いているのです。
しかし、日本人は、死んだら敵国の人間でも丁重に弔うことを厭わなかった国民でした。
死んだら、「魂」は、敵も味方もないと思っていたのでしょう。
だから、例え、戦争責任者でも、手厚く弔ったのです。
日本人の大らかさは、他国の人々には決して理解できないのです。
延々と、戦争を理由にお金をせしめようとする他国の民族とは意識が違うのです。
戦争が終われば、敵も味方もない。全て水に流す国民なのです。
原爆を落とした国であっても、全部水に流したのです、日本国民は…。
そういう国民性を理解しないと、物事は視えてきません。
直感で感じましょう。
ありがとうございます!
笑顔で!
大丈夫!
幸せです! と、唱えましょう。