直観ひとりごと(150)ボブ・ディランは、なぜノーベル文学賞の受諾を即答しないのか?
この(150)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(150)
◆ボブ・ディランは、なぜノーベル文学賞の受諾を即答しないのか?
私も、昔、若い時は、ボブ・ディランに憧れたファンの一人でした。
彼には、ノーベル賞なんて、一番ふさわしくない、と一部のファンの人達は感じているのではないでしょうか?
そんな中、ボブ・ディランが、ノーベル文学賞受賞に関して、沈黙し続けるにはやはり、何かそこには大きな「意味」があると感じます。
私は、彼の行動は、別に何の不思議もなくて、彼の苦肉の行動だと感じます。
なぜならば、私は、昔、ある時期を境に、彼に興ざめを覚えたことを思い出します。
実は、彼は、本当は、賞や勲章、大好き人間なのですから…。
ボブ・ディランよ、君は、そんなに、ノーベル賞が欲しいのか?
グラミー賞、アカデミー賞、大統領自由勲章、ピューリッツァー賞特別賞まで、受賞しているのですから…。
だから、本音は、欲しいに決まっているのです。
もしも、本当に、「ノーベル文学賞」がいらないのであれば、「即」辞退のコメントを発信したでしょうし、それをしないというは、「面子」なんでしょうね。
でも、本当に、欲しいのであれば、「即」感謝のコメントを発信すべきでしょう。
それも、しないで、今まで、沈黙をし続けるには、やはり、どちらになっても、物議を醸すという懸念が、彼にはあるのでしょうね。
賞も欲しいが、ファンからのブーイングも煩わしいと…。
そういう「ノーコメント」を装う人って、、全く潔しの人とは「真逆の人」でしょうね。
なぜならば、ボブ・ディランだからこそ、そうい煮え切らない態度はダメなのですね。
貰う貰わないはべつにして、そういう態度に、ファンは、裏切られたとか、地に落ちたとか、権力に毒された、と感じるのですね。
迷うには、迷うだけの何か「理由」がある。
「ノーコメント」には「ノーコメント」しなければいけない、何か「理由」があるのですね。
彼の活動のテーマからは、「賞」なんて、無縁の人でないと、辻褄が合わないのです。「即」辞退する人のイメージなのですね。
よく、職業がら玄米菜食を訴えている人が、陰では牛肉を食らっているのと同じ位、ギャップがある、そんな感じかな~。
良識あるファンならば、ボブ・ディランには、一番「ノーベル賞」を受賞してほしくないと思っているでしょうが、実は、本当は、彼が一番、一番、欲しい「賞」が「ノーベル賞」だった?
色々ネットで調べてみると、彼の公式サイトでは、「「ノーベル文学賞受賞者」の称号を受け入れたかと思いきや、わずか1日で撤回。」とあるのを見ても、案の定、彼の気持ちが定まっていない証拠ではないでしょうか?
それほど、彼の頭を悩ますほどの、彼が「偉大な賞」と感じている賞が「ノーベル賞」なのでしょうか?
ボブ・ディランを「傲慢だ」と言うほど、ノーベル賞はご立派な賞なのか?→
もともと、「ノーベル賞」は、ダイナマイトの発明者のアルフレッド・ノーベルが、爆薬の開発・生産により巨万の富を築き「死の商人」の汚名を払拭するために賞設立の遺言から生まれたものである、そうです。
もしも、それが事実であるのならば、そんな思惑のある「ノーベル賞」を、ボブ・ディランが受賞するのはなんか、変?
だから、一部のファンが思い入れするほど、彼は全身全霊、時代のメッセンジャーではないように感じます。
さらに、不思議なことに、彼は、いわゆる、「ノーベル文学賞」に該当する小説家や文学者ではないのですね。
ということは、「ノーベル文学賞」に該当する小説家や文学者は、今回は全く居なかった?
やはり、村上春樹には、絶対に、「ノーベル文学賞」を与えたくないのでしょうね。
その思惑も、なんとなくわからなくもない気がしますが…。
ビート・たけしが、『シャンベラン・ドヌール』を仏シャンパーニュ騎士団からされるそうですが、当の本人は、自分の国の日本の紫綬褒章の受章を断っていたそうです。
西洋人が、なぜ、漫才師のビート・たけしに賞を与え続けるのでしょうか?
もっと、偉い日本人はいないのか?
ちょっと、解せません。
昔、たけし軍団がフライデー襲撃事件を起こした時に、ある文化人の方が、「自分の愛人問題を弟子に解決させるなんて、何と姑息で、卑劣な! 文句があるなら、自分一人で殴り込みに行け!」と正論を吐いていましたが、正に、その通りで、ごもっともなご意見だと感心しました。
私達は、「賞」を与える側の思惑も、ここらでちょっと、「考える葦」になったほうがいいような…。
たかが歌手(?)のボブ・ディランに、無視されても、、コケにされても、スウェーデンアカデミーは、やっぱり、彼に賞を与えるのでしょうか?
それはさておき、今回のボブ・ディランの「ノーベル文学賞」には、「辞退する勇気」を持って頂きたいと切に願います。
それでこそ、「風に吹かれて」を堂々と歌うボブ・ディランである、というもの。
でないと、次は、「賞に選ばれて」という題の歌を歌う羽目に…。
でも、こんなに時間が経ってしまっては、どちらに「決」を下しても、やっぱり、彼は「男」を下げた、いえ、「人間」を下げた。
でも、そう言うことすら、感じなくなっている人々が多いということは、賞を欲しい人間が、ワンサカ、ワンサカ、ワンサカ、ワンサカ、イェ~イ、イェイ、イェ~イ!!!
「賞」が人間としての証? その賞を出しているトコロは、一体、ドコ?
誰が、決めているの? ちょっと、怖い!
「オリンピック至上主義」も怖いですが、やっぱり、これって、みんな誰が決めているの?
まあ~、イッカ~!
難しい話をすると、この国では嫌われ者になり下がる、「平和ボケ、日本!」
スポーツよりも、賞よりも、「地震や放射能や被災国、日本!」が、とっても心配です。
お金は、そういうところに、ドンドン使いましょう。
小池百合子氏の「希望の塾」に4000人が応募って、かつての嫌われ者百合子氏が、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで、ナント、この国の人々は、変わり身が早くて、流行に乗るのがお上手な、これって、一体、何? ちょっと、怖い!
昔、私が、ブログで、小池百合子氏が総理大臣になる一番手って書いたトキとは大違い!
実は、マスメディアって、一番、怖い! 「考える葦」でない、人が多すぎる!
やっぱり、その「時」、その「人」が、どういう「行動」を取れるかが、その人間の「本質」を見極められるチャンスなのでしょうか。
ということは、自分自身もまた、他人から、いつも、見極められている、ということなのでしょう。
「人の尻見て、我がふり直せ」
それが、その人の「生き様」という人生の道となるのでしょうね。
私が昔、ボブ・ディランに感じた幻滅を、またまた再現して頂きたくないと思って書いております。
ボブ・ディランよ、「辞退する勇気」を持て!