直観ひとりごと(239)「即位の礼」から見る天皇陛下の犯しがたい崇高さ!
この(239)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直感ひとりごと(239)
◆「即位の礼」から見る天皇陛下の犯しがたい崇高さ!
日本人に生まれて、天皇制が良いとか悪いとかいうレベルではなく、この地球上に「有る」というか「存在」することの意味を、日本人はもう少し真剣に考えましょう。
モノコトには、決して偶然なことはありません。
今の日本に「天皇制」があることが必然なのでしょう。
この地球の、日本の、日本国民の中に、「天皇制」が存在するということの重みに、日本人の持つ「天命」がヒシヒシと感じられてなりません。
私は、決して、右翼でも、左翼でもなく、願わくば、そういう政治的なものには関わりたくはないと思っている人間です。
そして、人間は、理想的には、「平等」であらねば、とも思っている人間です。
しかし、すべての人間は、差別ではなく、区別されて生きるようです。
日本の政治は、本来、「祀り事」なので、宇宙の計らいから、余りに外れてしまえば、国の存在もいずれ永くは続かないでしょう。
ゆえに、日本人の心の中には、政治家が理想な人物でなくても、あまり期待していないのではないでしょうか?
いえ、今の政治は、普通の国民なら、庶民なら、誰がやっても大差ないと…。
その理由は、やはり、天皇の存在が、深層心理に、どっかりと根を張っているように感じます。
そして、それは、特に、皇室の中でも、天皇になられる、宿命で生まれてきた「人」に、無意識に、絶大なる信頼を託しているからではないでしょうか?
それをまざまざと感じたのは、このたびの今上天皇の「即位の礼」のパレードでした…。
マスコミなどでは、芸能ニュースよろしく、雅子皇后に、ともすれば注目が集まっておりますが、
私は、第126代天皇の徳仁様の「存在」が、何か、普通の人ではないように感じてなりませんでした。
お歳も、もう還暦にちかく、59才になられたそうで、その年月は、普通の人では、人格が変わってしまうほどの苛酷な人生だったのではないでしょうか?
雅子皇后の今ある元気なお姿も、今上天皇徳仁様の慈愛ある賜物でしょう。
あのパレードを拝見して、物ごとに動じないご様子の、天皇陛下は生まれた時から、その宿命に目覚められ、その天命を全うされて生きられた尊いお方だと、痛感いたしました。
人間は、ともすれば、自分の生まれ落ちた宿命に納得せず、その環境から逃れたいばかりに、ついつい悪あがきをしてしまいますが、天皇様には、一切そういう雰囲気は見られません。
ご自分の長男としての、天皇を嗣ぐべき「者」としての覚悟が、いつも、その崇高なお顔から感じられていました。
それは、「徳仁」というお名前からくるかもしれません。
他の名前では、これほどの素晴らしい威厳ある雰囲気はでなかっただろうと思います。
やはり、名前の持つ「不思議さ」に、私は感動してしまいます。
そういう意味では、人間は、自分の生まれた環境に、どっぷりと、身を委ねて、覚悟を決めて、生き切ることが、いかに大切なことかということを、天皇陛下が存在するだけで、日本中の国民に知ら示されているのかもしれません。
こういうお方が、この日本の「天皇陛下」であらせられることに、私は感動を禁じ得ません。
雅子皇后の涙をみれば、雅子皇后は、それをやっと、即位のパレードで感じられたのでしょうね。
そして、その涙は、ちょっと、ご自分の生き様への懺悔の気持ちもあったのでしょうか…。
天皇陛下の波動は、弟の秋篠宮文仁親王も太刀打ちできないくらいでしょう。
定められた天命を潔く生きた「者」と、宿命に不平不満をもって生きた「者」との差で、その波動は大きな違いとなって現れているのでしょうね。
だから、私たち、偉大な天皇陛下のおわします、日本に生きる日本国民としては、天皇陛下のように、素晴らしい波動が自分にも、天からもらえると信じて、生きていきたいと、強く強く念じました。
そして、冒しがたい天皇の息吹を受けられて育つ「人」こそが、男女関係なく、次の天皇になられるお方なのでしょうね。
その御姿を拝見するだけで、頭が下がるそういう「人」が…。
それが、本当の「日本国民」に必要な「天皇陛下」ではないでしょうか?
それに相応しくなければ、私たち国民がとやかく言うまでもなく、天皇制も自然消滅してしますでしょう。
崇高な天皇制も、気高い富士山も、国民の崇高な意識がもたらした「モノ」ではないでしょうか?
崇高な天皇を育てるのも、国民の意識なのでしょうね…。
ありがとうございました。