直観ひとりごと(251)野村克也監督の「自分は月見草」と言える人ほど偉大である…。
この(251)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直感ひとりごと(251)
◆野村克也監督の「自分は月見草」と言える人ほど偉大である…。
人間の「命」って、一体、何なんでしょう?
また、偉大な昭和の人間が、一人この世から、いなくなってしまいました…。
本当に、残念でなりません。
でも、何となく、ホッとした気持ちがあるのも、免れません…。
不思議な気持ちに浸っております。
野村監督にとって、「悪妻」と言われ続けた、サッチーこと、野村沙知代さんを愛し抜き、庇い続けた生き様は、私にとっては、人生の生きる教師でもありました…。その生きる姿勢は、常に、ウソがないというか、真摯な言動に、私はいつも、心を動かれていたのでした…。
野村監督は、常に、自分のことを冷めた目で分析し、「王や長嶋はヒマワリ、私は月見草」というかの名言は、普通の人や、凡人からが、決して出ない言葉でしょう。私は、こういう言葉を吐ける人は、ただただ、スゴイ! ただ者ではない! と…。
野村監督は、ご自身を王さんや長嶋さんと同等の位置に置いているからこその、出たセリフであり、決して、言葉通りに、自分のことを卑下しているのではないのですね。いえ、反対なのです! 自分こそが、彼らのライバルなんだという、強い自尊心から出たセリフなんですから…。
あの言葉は、ある意味、王さんや長嶋さんを人気者としてチヤホヤするマスコミ関係者に対する皮肉や揶揄ともとれ、それを聞いたアンチ巨人ファンにとっては、かえって、ヤンヤの喝采を送ったのでしょう。阪神ファンだった私の五臓六腑に、心地よく浸透していったのです、「よくぞ言った!監督!」と…。
だから、エリートでない、多くの一般人にとっては、それからは、野村監督とは、グッと距離が縮まり、親しみを込めて、「ノムさん、ノムさん」と、慕ったのでしょうね。
判官びいきの強い日本の人々にとっては、野村監督の言動や存在は、ある種の、模範的な生き様となっていったのでしょうね。
決して、エリートでもなく、天才でもない、気さくで、庶民的な、野村監督の生き様を、バブル真っ盛りの厳しい環境で生きねばならない、国民たちに、きっちりと投影して、より身近に感じ、模範生として、ある時は、愛し、ある時は、憎み、ある時は、哀れみ、ある時は、労わり、まるで、自分のことのように、その野村監督に、思いっきり、真摯な感情をぶつけたのでしょう。
それを、野村監督は、まるで楽しむように、野球ファンを煽り、熱狂させることに、全力で、受けて立ったのでしょう。逃げも隠れもせず…。
どういうセリフを吐けば、マスコミや、野球ファンは、注目するのかとでも、いうように…。
野村監督がマスコミに踊らされたのではなく、野村監督が、マスコミを踊らせたのでしょうね。
とすると、野村監督は、悪妻と言われたサッチーに踊らされたのではなく、彼がサッチーをも、手玉にとって、踊らせていたのでしょうか。
そう考えると、全部、合点がいくのです…。
なんと畏れおおい、男の生き様でしょうか。
「悪妻は夫を哲学者にする」とはよく言われますが、だから、野村監督には、哲学者のように、名言や名著が残されているのでしょうか。
きっと、サッチーと結婚していなかったら、彼の、今の名声は得られなかったかもしれませんね~。
畏るべし、悪妻サッチー、ともいえるのしょうが、結局、野村監督も、サッチーも、似た者夫婦だったのでしょう。
良き伴侶を得て、幸せだったのでしょうね、きっと…。例え、世間では、ダブル不倫と言われても…。
人間って、死ぬまで、いえ、死んでからも、世間からの評価は、変わるのでしょうか。
野村監督がお亡くなりになって、彼の生き様が注目を集めるのに従って、サッチーにも焦点があたり、彼女の存在感もブラスに作用しているようで、人間って、100%の善人も、100%の悪人もいないのです…。
傍らで寄り添う人々の生き様によっても、評価が変わるのでしょうね。
サッチーが亡くなってからの、余りの憔悴しきった野村監督を見るにつけ、このたびの野村監督の「死」を知って、私は、哀しみの感情と同時に、何かホッとした感情も禁じ得ませんでした…。
これで、最愛のサッチーに再会できるんだ、野村監督は、やっと!
慎んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。