直観ひとりごと(131)日本の桜は散り行く桜、桜とは庶民のみの桜で~
この(131)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(131)
◆日本の桜は散り行く桜、桜とは庶民のみの桜で、日本の国花ではない?
今年も、桜の季節がやってまいりました。
日本人が、花見を愛でる気持ちは、日本人にしか理解できないのでしょうか?
私は、桜の花を見るたびに、日本人として、なんとも言えない物悲しい感傷に浸ってしまいます。
その理由は、あまりにも潔い散りぎわに、理由があるのでしょうか。
十年以上も前に、「桜はものを言う」というタイトルでブログに書きましたが、いつの間にか削除してしまいました。
幸い、まだパソコンに残っておりましたので、改めて、それを載せたいと思います。
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●桜はものを言う
日本の「桜」とは、国民のための花というよりも、庶民にとっての花であるようだ。
なぜなら、桜は、花としての価値よりも全体としての美しさに価値があるのだから…。
ということは、国民に喩えれば、人格なし、個性なし、和をもって貴しとなす、しもじもの花、同期の桜、桜散る、桜前線等々。
だから、お花見の桜とは庶民だけのもの?
秋には紅葉を観賞するが、それも桜と同じで花というよりも、紅葉の葉っは全体を観賞するイメージが強い。一輪の花を観賞するよりも、花も木も枝も葉のすべてとその周囲との景色をも含めての美に心を動かされるのか日本人の感性なのだ。
日本人って、本当に自然を慈しむ民族だったんだ…。
皇族や貴族は、本来は、桜とは縁がなかったのか?
皇室は「菊」というイメージが強い。
菊はひまわりやチューリップやカーネーションと同じで一輪一輪が貴い、という思いが見える。桜や紅葉とは違い、菊の花そのものの存在に意味があるのだろうか。
では、大阪の枚方の「菊人形」はどういう目的で作られているのだろうか。菊の花では、やっぱり、庶民にはあまり感動を与えないのではなかろうか。人工的すぎて、美的感覚に乏しいので、菊人形そのものに無理がある。歴史にまつわる人気者や人物でなければ、客は足を運ばないだろう。もう、毎年開かれないそうだが、それも当然といえば当然である。(2005年第94回で毎年開催の歴史は終了、単発で2010年-第95回-龍馬伝、2012年-第96回-平清盛開催。)
「菊」といえば、お墓参りには、必ず、菊が入った花をたむけるが、最近は、洋花であしらえたお供えの花もあるようで、なんだか、買う気がしないのは、私だけだろうか。
菊を死んだ人にたむけるのは、なぜだろう。死んだらみんな皇室の人と同じで「貴い」とあがめらるのだろうか。願望からなのか。
また、「松竹梅」という花(?)は、モノゴトをランク付けする時によく用いられる。「松」が一番上で、次が「竹」で、三番手が「梅」。ここにも「桜」は入っていない。なぜなのだろうか。
縁起ものといわれるのは、お正月の門松でもそれがうかがえる。この三つもやはり庶民とはあまり縁がなさそうな…。京都の白足袋族達は「松竹梅」に縁がありそうな感じがする。
古い伝統の歌舞伎世界は梨園という。歌舞伎界は梨園と言いながら、映画の松竹と関係がある。「梨」と「松」や「竹」では、縁がなさそうなのに、なぜ歌舞伎界は「梨」なのか。合点がいかない。
でも、これらも「桜」ではないということは、庶民ではないということなのか。
能や狂言や華道(花道ではないのか)や茶道も、「桜」には縁がなさそうだし、京都の神社や伏見稲荷やお寺も「桜」とは関係がなさそうだ。やっぱり、それらは、庶民がたしなむモノではなかったのか。
昔の日本は、露骨に差別はしていないようだか、心の底(深層心理)では、きっちり、強力な差別階級に生きていたのではあるまいか。庶民は決して「菊」や「松竹梅」ではないのだ…。
昔から、それがわかっていたから、それに逆らうように、庶民たちは「桜」や「紅葉」をこよなく愛していたのだろうか? もしもそうであるならば、その深層心理に流れる反国精神に心意気を感じる。
その心意気を、「桜」で表していたのではなかったか。
潔く散ってしまう「桜」は、犠牲的精神を培うには格好の花(?)であろう。
これは奴隷の花だ。桜を国民の花にするには全ての日本国民の花にしなければなるまい。
そうでなければ、「菊」を国民の花にするべきだ。
理屈ではなるほどそうなのだが、やっぱり、日本のいち庶民としては、「菊」よりも「桜」に有終の美を感じて、なんとも桜とは、日本人の心情にぴったり寄り添う花だのだ。
菊は、死んでからでいいと思う。
ということは、昔の日本人は、それらすべてをお見通しで、「桜」を選んだのだとしたら、花はものを言うからか…。
やっぱり、日本人って凄い!!!
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過去の文章はホント、硬いですね~。我ながらこんな硬い文章を書いていたのかと改めてびっくりしています。もともと、書くことには自信がなかったので、きっと、気追っていたのでしょうね。
上記の文章の中で、「庶民」という単語がでてきますが、この「庶」という字は、「めかけ」という意味もあるそうな。「庶子」と書いて、「めかけの子」という意味なので、「庶民」とは、「めかけの民」で、「正式な国民ではない人のこと」という意味になるのではないでしょうか? だから、かつての戦争でどんどん駆り出しても庶民ではない人々は平気だったのでしょうか?
「庶民」という言葉と、「桜」という花が、どこか通じるところがあると感じるのは私だけでしょうか?
さらに、庶民の「民」や、国民の「民」という字も、「目を見えなくした奴隷」という意味だそうですので、「人民」「平民」「農民」「難民」「民族」「民間」「民権」「民芸」「民法」「民主主義」「自民党」「民意」「民話」等々、「民」がつけばどんな言葉も白々しくなってしまいます。この字「民」が無くならない限り、この地球上では、それぞれの国の民は全て、ある意味「奴隷」なのでしょうか?
だったら、今、勃発している民族闘争も、永久にこの地球上では、民族のための「平和」は訪れない? 民族紛争だって、結局、目の見えない民同士の戦いなんでしょうから、「庶民」以外の人々は、決して「自爆テロ」など起こさないのです。起こす人たちは、自分と同じ「庶民」を巻き込んでいる、ということに気が付かないのですね。
また、最近、特に、「第三次世界大戦」という言葉が、無視できないような雰囲気になってきておりますが、もしも、その戦争で、真っ先に犠牲になるのは、国民ではなく、しもじもの庶民が先で、「桜」の如く、潔く散り行くのが、「良し」という美学を、またもや押し付けられるのでしょうか。
だから、この地球上では、「平等」なんてあり得ないのでしょうね。「平」の意味は、全く平らなモノは人工でもないがぎりあり得ないし、「等」の意味も、ランクや等級を表す字であって、等しいとは全く矛盾しているのです。なのに、「平等、平等」と叫ぶこと自体おかしいことですので、「平等」を口癖にいう人々には、くれぐれも気を付けましょう…。
それは、あたかも「共産」という文字が、一部の人たちだけが富を貪っているのによく似ています。「共産」なんて、この世にあり得ないのですから…。今や隣国ではその不平等が問題にされて、「虎」も「蠅」と叩くと言って、粛清旋風が吹き荒れているそうですが、それを粛清している人たちは、それを果たした後は、「庶民」の側に立てる政治をするのでしょうか?
「桜」も同じ花びらの桜は一つもないのです。桜そのものも色んな種類がある。それなのに、桜は一派ひとからげで、扱われる運命なのです。それでも、「桜」は文句も言わず、他の姦しい「ムクゲ」や厚かましい「梅や牡丹」よりも美しく、今では、アメリカでもその繊細さに感動を与えています。だけど、本当に、アメリカ人は、日本人のように、この「桜」のもつ「散り行く桜」の悲哀を感じ取れるのでしょうか? それははなはだ疑問ですが、日本人にさえ、桜に込められた思いが分からない人が多くなっているのだから、仕方がないことなのでしょうか。
ちにみに、日本の国花は「菊と桜」だそうです。やっぱり!!!
松でも竹でも梅でもなく、菊と桜…。
でも、なぜ、二つも必要? 桜は桜の役目を果たし、菊は菊の役目を果たせ、と言うことでしょうか? 最近は、菊の役目を果たさないので、桜も桜の役目を果たさないと、深層心理では、感じている人が多いので、さてさて、やっぱり、「亡国」に近づきつつあるのかもしれませんが…。危機管理の無さは、菊の責任でしょうか?
桜が桜の役目を果たさず、潔く散らずに凛として生きる人が少なくなりました…。
桜のようで桜でない花も咲き乱れてしまい、この日本には、もう真の桜は咲かないのでしょうか?
だからこそ、日本人の庶民だけでも、桜の花を咲かせて、潔く生きるべし! いえ、潔く散るべし! を肝に命じましょう。
我々、庶民は、雑草のように、地震や災害などを気にせず、勇気をもって生き抜きましょう。
なぜなら、踏まれても、揉まれても、生き延びていくのが、「庶民」としての、雑草なのです。
それは、たとえ一代では短い命であっても、何代にもわたって永い永い歳月を、生きていくのですから…。
だから、庶民こそ、美しく生きねばいけないのです。
美しくいきてこそ、美しく死ねる。
そうすると、あの世では美しい命を咲かすことができるのです…。
●庶
この字の下部は動物の頭(廿印)のあぶらを燃やすさまで、光の字の古文。庶はそれに广(いえ)を添えたもので、家の中で火を集め燃やすこと。さらにまた、諸(これ)と同様に、近称の指示詞にあて「これこそは」と強く指示して、「ぜひこれでは」の意をあらわす副詞に転用された。煮(にる)・暑(あつい)と同系のことば。また、集める意を含み、?(あつめる)・諸(もろもろ)とともに、多くの物が集まった意に用いられる。貯(多く集めてたくわえる)と同系。
意味は、もろもろ。多くの物。数多くの。もろびと。大衆。おおい。物が豊かで多い。庶子とはめかけの子。ちかい。もう少しで望ましい状態になるさま。やがて…だ。こいねがう。ぜひこれだけはと、望む。こいねがわくば。動詞の前につき、「なんとかして、これだけはしたいもの」との意をあらわすことば。
●民
ひとみのない目を針で刺すさまを描いたもので、目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。のち、目の見えない人のように物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々の意となる。また、人と結合して「民人」「人民」と称する。もと眼(目が見えなくなってねむる)と同系。泯(水に没して見えない)・紊(入り乱れてよくわからない)などとも同系。
意味は、たみ。おさめられる人。権力をもたない大衆。また、広く人間。人。
●平
浮草が水面にたいらに浮かんだ姿を描いたもの。萍(うきくさ)の原字。また、下から上昇する息が―線の平面につかえた姿ともいう。抨(平面をうち当てる)・碑(たいらな石)・壁(たいらなかべ)と同系。
意味は、たいら。たいらか。高低がなく傾いていない。でこぼこがなく平均している。水平。公平にする。えこひいきしない。でこぼこがないようにそろえる。乱をうちしずめる。また、しずまる。穏やか。起伏のないさま。やさしい。ふだん。何もない普通のとき。あたる。穏やかにおさまるさま。平家や平氏の略。たいらげる。全部食べてします。平野。ひざをくずして楽な姿勢をとること。その組織で、特別の役職を持たないこと。また、その人。なにとぞ。
●等
「竹+寺」で、もと竹の節、または竹簡の長さがひとしくそろったこと。転じて、同じものそろえて順序を整えるの意となった。寺の意味(役所、てら)とは、直接の関係はない。治(でこぼこをそろえる)と同系。
意味は、ひとしい。同じようにそろっている。ひとしくする。そろえる。同じものをそろえて整理する。同じ等級にそろえる。ならべてくらべる。たぐい。同じものをそろえてほかのものと区別した段階・順序。ランク。階段の段を数えることば。また、転じて、モノゴトの段階。順序を数えることば。ら。ほかにも同じものがあることをあらわすことば。同じ大きさをした、はかりの分銅。なに。どんな。まつ。まちのぞむ。