ことわざカウンセリング(12)「犬も歩けば棒に当たる」
この(12)「ことわざカウンセリング」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★ことわざカウンセリング(12)
◆「犬も歩けば棒に当たる」
だいぶん昔のコトで恐縮ですが、市場調査で京都に行った時、地下鉄の中で、若夫婦の母親がダッコしている赤ちゃんの服には犬の鎖のような紐が付いていて、思わず目を疑ってしまっったお話です。
昨今の子育ての方法も時代が感じられる…。
よちよち歩きの坊やがいくら心配だからと言って、動物じゃ~あるまいし、それはないでしょ! って感じ。
ネコでも鎖をすれば、怒って引っかくでしょうに、犬でも鎖をはずせば、ちぎれるほど尻尾を振って喜ぶでしょうに、赤ん坊は犬猫以下ということでしょうか…。
この現象は、「犬も歩けば棒にあたる」のことわざ通りに母親が心配のあまり、子どものコトを思んばかって、危険から守っているようですが、その実、ただ単に自分たちの自由を満喫したいがために、手かせ足かせとなる子どもをナイガシロにしているに過ぎないのでは…。
こういう母親の身勝手で色々なものが飛ぶように売れているようですが、動物と同じように扱われれば子どもは大きくなっても、きっと動物のように振る舞うでしょうが、そうなっても文句はいえませんよね。
いくら赤ちゃんといっても、人間の本質には大人も子供も変わりはないように思います。私には人間の本性は、生まれる前も、生まれた時も、死ぬときも、ずっと同じであって、永遠に続いているように思えてしかたがありません。
そうであれば、犬のように扱われている坊やは、一体どんな気がしているのでしょうか。潜在意識に悪影響を与える可能性も大で、きっと大きくなれば逆襲に転じるのでは? あな、オソロシヤ!
またその布の鎖(?)らしきものを売るほうも売るほうです。おまけに胸には可愛いロゴが入り、しっかりデザインされているのを見ると、有名ブランドの仕業で、ますますソラ恐ろしい。商魂たくましいとはこのことでしょうか。
私なども仕事柄デザインに関わる機会が多いので、ひと事のようには思えません。こんな仕事が舞い込んだら、零細企業ゆえやっぱり仕事と割り切って引き受けてしまうでしょうか? いえ、いえ、そういう仕事ならば断固拒否したいと思っております。
大手の企業ならば私どもの零細企業と違って、いくらでも仕事は選ばれるはず。いや、金儲けのために大手が率先してそういうものを作り出しているのだから、これは余計に始末が悪いのです。かえって、中小企業にはポリシーがある会社が多いのです。大儲けできずに、それゆえ、中小企業で甘んじており、大企業にはなれないのでしょう。いえ、なりたくない…。
だから、大手が襟を正さないといくら一個人が声高に叫んでも、それこそ犬の遠吠えに終わってしまう。犬の遠吠えに終わらせないためにも、極力、一人一人が心に問わねばならないのですが…。
ちなみに、昔の育児では、おんぶが主流で、今は抱っこが主流だそうで、今は、赤ちゃんを前で向かい合わせに抱っこする道具がありますが、でもこれについても、ある本では、今の日本人に自立心がないのは、この抱っこが原因と書かれておりました。
なぜなら、おんぶは、母親と同じ方向で顔を向いているので、母親のする経験や行為が、その子供にも同じ効果を与えているのではないか、だからおんぶをされた子は、大人の意識が自然に身につくのではないかというような論だったと記憶していますが、その時、私はいたく納得したものです。だから、犬の紐なんて言語道断でしょう。
もう一つ、これもだいぶん前の話ですが、老人をターゲットにして、動物実験のような話を耳にしました。それは認知症老人が迷子にならないように、実験台として犬の身体にチップを組み込みバーコードのように読みとらせる機械が開発され、すでに実用化されているらしいのです。それも人間の勝手な都合によって…。
それを組み込まれれば、迷子になっても直ぐに見つかるという。それはとりもなおさず、認知症になったならば、即、犬扱いにされて、マイクロチップを埋め込まれ、人権が無視されて、放ったらかしにされると言うことを意味します。介護するほうは楽にはなるが、老人が動物と同じ扱いにされるということでしょう。
認知症患者をターゲットに、益々、国も率先して、色々なモノコトを仕掛けてくるでしょう。なぜならば、役にもたたない(?)老人は、年金や医療や保険の為にも、長生きして貰っては困る人や企業や国が多いのです。その為の戦略は、ありとあらゆる分野で行われるでしょう。
だから、これからの我々は動物扱いされないためにも、国や病院の言いなりにならないためにも、自分の責任において、絶対「認知症や寝たきりにならない」ことを断固として、生きる目標に定めなければならないでしょう。それが霊性ある人間としての義務でしょう。その為には、自分以外の為に生きるコト! 或いは、生きていて何かのお役に立つコト!
これからの混沌とした世の中では、弱者は動物扱いされるということを肝に銘じて、そうならないためにも、一人一人が心ある強者となって、世の中を変えていかなければならないのです。
強者である両親が、弱者である子どもに良かれと思って、衣服に鎖がついた服を着せる行為は、国や病院と同じ立場であるということを肝に命じねば!
そうすれば、弱い人間が歩いても、棒に当たらない世の中が開け、そして坊やも安心して鎖から解き放たれることでしょう。
●犬も歩けば棒に当たる
でしゃばるから禍にあう。また反対に出歩けば意外な幸せに逢うこともあるの意。しかし最近は、どちらともなく、だまって坐っていては何も変化は生まれない。動けばいいにしろ、わるいにしろ、何かの変化に合うという積極性の意味に使われることが多い。「故事ことわざ辞典」新文学書房。
物事を行う者は、時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあることのたとえ、(前者が本来の意味と思われるが、後の解釈が広く行われる)「広辞苑」