ことわざカウンセリング(11)「知らぬが仏」
この(11)「ことわざカウンセリング」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★ことわざカウンセリング(11)
◆「知らぬが仏」
久々のことわざカウンセリングです。
今回は、昔ながらのことわざにまつわる体験談です。このことわざに唸ったというか、感心させられたことを思い出しますが、昔の日本人の知恵にはただただ兜を脱ぎます。
ずいぶん昔の話になりますが、当社の浜田社長と一仕事おえて、遅い夕食を共にしたときのコト。安い近所の居酒屋で、私が注文した豆腐の白和えをおいしいおいしいと言いながらパクついていると、後ろの席のお客が同じ物を「何か味がおかしい」とその一品を返品したそうです。
向かい側に座っていた浜田社長がそれに気がついて、その白和えを返そうとしたが、私が余りにもおいしそうに食べているし、話に夢中になっているので、そのまま言いそびれたらしいのです(何と薄情な!)。店の人も同じ思いで、そっと私の様子を観察していたそうです…。私はというと、それを完食して満足!
普段は、浜田社長よりも私のほうが食べ物にはずっと敏感で、ちょっとおかしいと思うとすぐ下痢と便秘が交互にやってきて大変な騒ぎになる筈で、「社長、オタクのお腹はごみ箱か」と呆れるくらい浜田社長の胃袋は全く動じないのです。それが今回は…。やっぱり、あまりの仕事の忙しさのためが感覚がマヒしていたのでしょうか…。
そんないきさつがあったとはつゆ知らず、私は帰ってから満腹感とほろ酔い加減で、バタンキューと寝てしまったのです。何事も無く…。
次の朝、爽快な気分で出社すると、浜田社長は下痢がひどくて一日中のたうち回っていたそうで、昨夜は、吐き気と下痢と熱で寝られず、睡眠不足で頭もモウロウとしているとのこと…。それを聞いて、私は初めて、昨夜の居酒屋でのコトのいきさつを知らされたのでした…。
しかし、当の社長は、一口どころか半口ぐらいしか口にいれていないのです。要するに、殆どその白和えを食べてはいないのです、なのに…。
きっと、私も知っていたら尋常ではなかったろうと想像するとゾッとします。浜田社長はほとんど食べなかったのに、それが七転八倒の苦しみに、反対にパクパク食べた私は何の兆候も現れず、何とも不思議というか不可解な話でした…。
私の「無い頭」でツラツラ考えてみるに、「知らない」ということは、ヤバイものを食べたという意識が脳に伝達せず、その時、下痢や腹痛を起こす物質(?)がつくり出されなかったからではないでしょうか。
また反対に、食べてもいないのに悪い物を食べたと信じたら、悪い物質がつくり出され、身体中を巡り巡って、病気になるということではないでしょうか。
浜田社長はその問題の白和えは食べなかったけれど、「この店の他の物は大丈夫だろうか」という疑いの意識で、他の物を口にしていたとしたら…。その意識が引き金となって病気の原因を呼び寄せたとも…。
それが正しいのなら、こんな素晴らしい発見(?)はない。なぜならば、悪いことに意識を向けなければ、大抵のことは悪くならないということの証なのだから…。悪いモノに人間の意識を向けなければ、助かる可能性も出てくるかも知れない。
それと反対に健康、健康と騒ぎ過ぎるのもかえってマイナス因子がつくり出されるような気がしてならない。心配すればするほど悪い結果になるというのもうなずける。メタボ、メタボと騒ぎするのもいかがなものか、アメリカ人なら殆どの高齢者が日本のメタボに引っ掛かるというが…。
昔の人の知恵はバカにできません。「知らぬが仏」とは、本当によく言ったものです。生活の知恵と言うよりも、直感が鋭く、常にそれを磨いていたコトの証拠でしょう。感覚が鈍くなっているのは、生き物では人間だけでしょうね。
人間は、どうでもいいコトに意識を向け過ぎて心配したりするが、その分、大切なコトにはトンと気がつかないで、寿命が縮んでいることには無頓着で、死に際になって慌てふためき、手遅れになってしまう。
私にとっては、あのときの白和え事件は、「知らぬが仏」を肝に命じ、意識を良い方向にだけ使いなさいというお知らせだと真摯に受け取り、知らなくてもよいコトには意識を向けず、知らねばならぬコトのみを一生懸命追求していこうと誓った原点となりました。
そういう意味では、巷を騒がせた食品誤表示問題も、今では殆ど忘れたかのようで、あれも、ホテル側が発表して初めて知ったから騒ぎ出したことであって、何も知らされなかったら、それを食べた何万という人たちも、全く気がつかず、何の問題にもされずにそのまま済んだのです。そういうコトはこの世にはごまんとあることでしょう。それほど、人間って鈍感なのです。味覚も、いえ味覚だけでなく五感も、結局、麻痺しているのでしょうか。
騙すほうも騙すほうですが、それに気付かず、嬉々として食べる人も食べる人でしょうね。問題が発覚してから文句を言う前に、あの食材はおかしいと言えない人間もどうかしている、と言うよりも、食材を差別するというか、特別扱いするほうが問題だということにもなるのでしょう。
食べ物はみんな貴くて、順位や格を付けるほうがおかしいのです。それもこれも物にハクを付けて、高く売らんかなという商売根性の表われでしょう。
それに騙されるほうが愚かと言うことか、あるいは、そのホテルやお店を過信するほうが愚かだとも言える…。そういう高級な場所に出入りして、高級なモノを食べる自分に価値観をおいている、或いは優越感に浸る…。ブランドに凝り固まった人たちと共通する思考で、それが愚かだと言えるのでしょうか。
何はともあれ、正直にというか、発表したホテル側が猛攻撃を受けて、今だに知らぬ存ぜぬで知らん顔をしている人間のほうが責められない社会なんて、やっぱりこれも「知らぬが仏」の反(裏)の表われなのか? こういうことわざを悪いほうに悪用されればもう何をかいわんや!
良心的な日本人は、今後も、色々な悪い出来事やモノゴトが出てくるでしょうが、それに意識を向け過ぎないで生きよ、という示唆なのでしょう。
この世のあらゆる存在は必然性があって現れるのだから、常に感謝の気持ちで接すれば、最小限に災いは避けられて、自ずから未来はイキイキと開けそうですよ。
それにつけても、食べ物さん、有り難う。
白和えさんにも罪はない、腐ったものでも、悪いという意識を向けなければ、何の影響も受けないということでしょう。
確か、キリストも、毒を飲んでも死なないことを試したそうな…。
キリストも人間、我々も人間、すべて意識の成せるワザ。
誤表示された食物さんにも何の罪も責任もない。
悪いのは、やっぱり、「知らぬが仏」を悪用する人間なのだ。
●知らぬが仏
そのことを知れば、腹を立てるか悲しむか、がっかりするか、なんらかの心を労するものだが、知らずにいれば一向平気で、仏さまのように無新でいられる。人は好奇心の強いものだが、あまり何でも知りたがるのは考えものである。「ことわざ辞典」日東書院。
知れば腹も立つが、知らなければそのまま定期でいられるというもの。世の中は知らない方が幸せだと思われる事が多いのではなるまいか。「ことわざ格言集」光文書院。