直観ひとりごと(218)「森水生士〈カタカムナ事件〉の真相を語る 」って何?
この(218)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(218)
◆「森水生士〈カタカムナ事件〉の真相を語る 」って何?
今年に入ってから、またまた、偶然、「カタカムナ」の情報を知るコトとなりました…。
これって、とっても不思議です。自分がもう「解決」したと思っているコトが、向こうからというか、全く予期せぬトキに、予期せぬコトが、やってまいります…。
それは、先の(2019.1.7)「直観ひとりごと(214)「カタカムナ」を精神科医 加藤清が語る…。」→のトキと同じでした…。
今回も、ネットを検索していたら、ヒョンなことから、「森水生士〈カタカムナ事件〉の真相を語る 」というサイトが目に飛び込んできました。
今までにも、『カタカムナって何?』の本を出そうと思ったトキ、いろいろネットで情報を探したのですが、そのトキは全くこのサイトには巡りあえませんでした…。そして、数年経って、もう「カタカムナ」を卒業しようとしている今になって…。なぜ? という感じがしてなりません。
ただ、森水生士氏のページ「森水生士〈カタカムナ事件〉の真相を語る 」を拝読させて頂いて、やっと『カタカムナって何?』を「出版」して本当に良かった、という思いが新たに沸いてまいりました。特に、『カタカムナって何?《前編》』のほうに、確固たる「自信」が持てました…。
カタカムナファンのみなさん、どうか、よかったら、、『カタカムナって何?』の《前編》だけでも、お読み頂ければ、幸甚に存じます。数十年間、大切に温めてきて、自分なりの渾身の力を振り絞って、書かせて頂いたものなので、絶対に、損はさせません。
また、出版はいたしましたが、期待に反して、私の「疑問」の一つひとつに正式にお答え頂いた方は、一人もございませんでした…。それも、「カタカムナ」に見切りをつける要因の一つでもありますが…。それほど、「カタカムナ」って、摩訶不思議な「モノコト」なのでしょうね。、きっと、精神と肉体が一つになって、というか、肉体が必要な時代でなくなったトキに、自ずから「答え」は出て来るのだろうと思います。
さて、なぜ、「自信」が持てたかと言いますと、この「森水生士〈カタカムナ事件〉の真相を語る 」の頁には、森水生士氏が「カタカムナ」についての「真相」について、対談で、正直に、感じたコトが書かれていたからなのですね。
それは、まず、この、森水生士氏の〈カタカムナ事件〉を、要約いたしますと、「学園創始者の森水生士氏(生物学舎)が、楢崎皐月氏の「カタカムナ文献の発表」からおよそ10年後に、ご自分の園長室にカタカムナのウタヒを書いた額を飾られていて、ある教育関連の機関紙にも「素敵なカタカムナ」と題した一文を載せられたそうです。
しかし、教育評論家・細井正治氏が、「森水学園に見るトンデモ愛国主義」なる批判を投稿したコトで、リベラルを標榜する教育関係者数名が後に続き、森水学園批判をし、森水氏はこれにショックを受け、寝込んでしまったそうです。
これが「森水学園カタカムナ事件」と呼ばれるものだそうです。」とありますが、私は、全く知りませんでした…。
さらに要約しますと、「森水氏は「カタカムナ事件」については反論しないまま、その1年半後、1978年5月、事故に遭われて、亡くなられたようです。
亡くなる数日前に、音楽講師の林田光氏と「カタカムナ」のことを録音テープで語っておられ、今回、その貴重なテープをこのブログに載せられています。
林田光氏も2009年に亡くなられて、膨大な遺品の中にこの会話テープがあったそうです。」これも、偶然ではないのでしょうね。
次に、私の拘ったトコロに下線を入れさせて頂きます。(一部抜粋)
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●カタカムナを楽しむ──森水生士の話
林田:……そもそもカタカムナって、どこまでまともな話だと思ってらっしゃるんですか? 森水センセは。
森水:う~ん、最初は面白くてぐいぐい引き込まれたけど、今はまあ……楢崎皐月が書いたファンタジーなんじゃないかと思ってるよ。
林田:え~? 信じてなかったんですか、センセは。あの、金鳥山で平十字というマタギみたいな人物と遭遇してどうのこうのという話も全部作り話だと……。
森水:作り話というか、まあ「小説」みたいなものなんじゃないかな。……あ、同じか。でも、あのくだりはなかなかいいよね。(略)
楢崎は理系の人間だから、文学的なものを創作することに憧れみたいなものを持っていたんじゃないかなあ。
林田:じゃあ、カタカムナのウタヒも全部楢崎の創作ですか? あの文字も楢崎が発明…した…と。
森水:多分ね。よくできているよねえ。カタカムナ文字って、ものごとの移り変わりとか変遷とか森羅万象とか、いろんなものを文字そのものに込めている感じでしょ(略)
林田:しかも、いろは歌みたいに、50音を重なることなく1回ずつ使っている……と。
森水:そうそう。苦労したと思うよ。
(略)
以上が、1977年頃に本校初代園長・森水生士と音楽講師・林田光が音楽室で酒を飲みながら交わしたと思われる会話です。
森水センセは決して右翼思想の持ち主などではなく、カタカムナを題材にして自らの思想に緩さを与え、楽しんでいたのでしょう。
それを非難するなどというのは、ずいぶん偏狭な人たちもいたものだと思います。(「森水生士〈カタカムナ事件〉の真相を語る 」より)
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この「対談」を読んで、森水生士氏は、「カタカムナ」は、楢崎皐月氏の「創作」だと語っておられます。ほとんど、私が感じていたコトと同じです。ただ、ちょっとややこしいのですが、森水生士氏と私の違う点は、「カタカムナ」の「創作」の中の「物語」は楢崎氏の「創り話(小説)」であって、「図象符」や「声音符」は彼の創作ではなくて、近年の他の人たち、いわゆる他の「グループ」や「組織」が創作したという結論ですが…。
要するに、「カタカムナ」や「カタカムナ人」や「カタカムナの巻物」などは楢崎氏の「創作」だろうと感じますが、図象符は他の人間、それも近年の戦争前から戦争中にかけて生きた人々の「創作」だろうと感じます…。楢崎氏は、やはり「図象符」を発見して、それを解読した人なのでは? その「解読」するにあたり、「カタカムナ」や「カタカムナ人」を「創作」というコトでしょうか?
また、私が一番に感じたことは、公平に、冷静に、損得勘定や、利害関係がなければ、「カタカムナ」に接すれば接するほど、最後には、森水氏のような「カタカムナ人が創作したのではない」という「結論」に行き着くのは、理の当然だと感じます。私自身も、最初は信じて夢中になりましたが、最後には、「カタカムナ物語」は、楢崎氏の「創作」だと思いましたので、だからこそ、『カタカムナって何?』の《前編》が書けたのですね…。さらに、現在では、「図象符」は、決して楢崎氏の「創作」ではないという強い確信をもつことに至りました。それは、本を出してからこそ、サトらせて頂けたのだと信じております。要するに、楢崎氏が「図象符」を発見したコトから、全ては始まったのだろうと感じます…。
そして、楢崎氏の置かれたあの当時の環境(物理や化学の世界)から考えますと、どうしても見えない世界のコトを科学的に解き明かしたかったがために、「カタカムナ」や『カタカムナ人」や「カタカムナ文明」を創作しなければならなかったのではないでしょうか? でないとご自分が発明した理論や学説となれば、もはや科学者としては生きてはいけなかったでしょうから…。
だから、私は、「カタカムナ文明」と呼ばれた「文明」はなかったとも…。ただ、別な「名」の高度な「文明」は決して否定はしませんが…。それは、その時代に生きた人々は、そんな「名前」では認識していなかったという意味で、ですが…。たとえば、縄文時代も、弥生時代も、奈良時代も、平安時代等々も、昔の人はそう言う「名前」では呼んでいなかったのでは…。
さらに、「平十字」も「盧有三老師」もいなかったとも…。これは、北一策氏の『特殊固有なその心、その魂、その精神 カタカムナ《源流》日本人よ! 今こそこの《大霊脈本流》の中に世界を戻すのだ 』の本にも詳しく検証されていますし…。
ゆえに、「カタカムナ」で、何が、重要なのかと言いますと、楢崎氏が世に出した、その「発見物」の「図象符」と、楢崎氏が解読された八十首の「ウタヒ」の内容が、「真理」かどうかが、重要なのでしょうね。それを、楢崎氏は現象の物理学を捨てて、潜象の物理として解明したかったのでは? だから、楢崎氏が発表した「図象符」と、八十首の「ウタヒ」と、そこに含まれる「神名」だけが、貴重な「モノコト」だと私は感じるからであり、だからこそ、ソコから離れたら、絶対、ダメなのでしょうね。「図象符」と「ウタヒ」と「神名」から離れたら、もはや、楢崎氏が発見された「カタカムナ」ではないのでは?
要するに、「カタカムナ」は、楢崎皐月氏の科学者としての唱えている数々の「科学的理論」が「正」か「偽」かが重要な「問題」であって、それは現在の「物質文明」からの「科学」の問い直しを修正するために、楢崎氏は、あえて「カタカムナ」という「物語」を創作し、その中に「新科学理論」を構築したのでは、と感じます。そうでもしなければ、世に出せない、問えない、出すと、物理学者として科学者として生きていけない、抹殺される、その当時の世間の情勢だったのでしょうか。だからこそ、ご自分が前面にはでないで、宇野氏を「相似象学会」の代表にして、そこから出版された…。楢崎氏ご自身は、影に隠れたという感じがいたしますが、ここに大きな「ヒント」や「謎」あるのでしょうね。
でも、最後の最後で、楢崎氏は、その「図象符」にも大きな「誤り」があることを悟られたのですね。だからこそ、最後までの八十首を宇野氏に解読を伝授されなかったのでは? したくてもできなかったというのが、事実では? 「図象符」でも解けないことをサトってしまった物理学者の悲劇でしょうか? 私は、やっと、その大きな「謎」に衝き当ったような感じがします。しかし「謎」が見つかったけれど、理解できたとは思っておりませんが…。要するに、今の主流の科学や物理では決して解明されないのでしょうね。
だから、私は、現在の科学では、「カタカムナ」の中の「ウタヒ」を読み解くのは、ちょっと難しいので、「図象符」と、「古事記」や「日本書記」に中に出てくる「神名」だけに焦点を当てて、心理カウンセラーとして、お名前から「姓名リーディング」をしているんですね。それだけでは、まだ足りないので、さらに、「漢字」や「言霊」や「チャクラ」や「エネルギー」など他の諸々のモノも利用しておりますが…。そして、びっくりするほどの納得できる「結果」を出しておりますが、これも、楢崎氏や宇野氏のお蔭だと感謝しております。
特に、「カタカムナ」の創作には、まず始めに、「日本語」があってこそ、「カタカナ」があってこそ、八百万の神々の「神名」があってこそ、楢崎氏が創作できたのではないでしょうか? もちろん、「巻物」は、私の『カタカムナって何?』の《前編》でも書きましたが、全くの「偽物」で、楢崎氏が宇野多美恵氏に作らせた「ニセモノ」だと思っています。
だから、楢崎氏は、物語を創作するにあたり、「偽書」とされる「古史古伝」の「竹内文書」なども熟読されたのではないでしょうか? 「古事記」なども、「カタカムナ」を「解読」するためにではなくて、「カタカムナ」の物語を「創作」するために、熟読されたのでは? と…。
と、いろいろ書きましたが、上記の森水生士氏と林田光氏の「対談」をお読み頂いたら、森水氏の考え方が、よくよく、おわかり頂けると思いますし、質問されている林田氏の微妙な「物言い」が、世間の一般人の、忌憚ない意見ではないでしょうか? 林田氏は「カタカムナ」が無くても困らない人で、森水氏も亡くなる前は、もはや「カタカムナ」が無くても困らない人になっていたのでしょうね。
私も、「カタカムナ」の「物語」等は、無くても困らない人間ですが、楢崎氏の「科学理論」は、もっともっと勉強したいと思いますが、それよりも私は、心理カウンセラーとして、「日本語」の成り立や、「言霊」のほうに興味がありますので、私の成すべき勉強をこれからもやり続けてまいりたいと存じます。
だからこそ、「カタカムナ」の「図象符」を発見した楢崎氏やそれを世に広めた宇野氏は、「カタカムナ」の発見者と継承者として、ずっとずっと、そのお名前が残ってほしいと願ってやみませんし、不可解な「日本語」を解読するには、「図象符」も「神名」も必要だと感じます…。だから、ちょっと、「カタカムナ」って、やっぱり、一概に、「ウソ」だとか「正しい」とかいう、安易な「答え」はだせないのでしょうね。
また、「カタカムナ」に関わった方は、この森水氏といい、宇野多美恵氏といい、なぜ、「事故」に遭われるのでしょうか? なぜ、幸せな「死に方」ではないのでしょうか? これが私が『カタカムナって、何?』《前編》で問う「カタカムナで幸せになれるか?」の真の「テーマ」なのですね。彼らの事故から思いますに、例え、「カタカムナ」に関わったからと言って、全うな普通の「死に方」ができるとは限らないのですね。
人間は、最後の最後で、覚悟して「幸せだった」という「意識」を残して、あの世へ旅立たないと、来世は…。それは、楢崎氏にも言えて、ゆえに、一番幸せな「死に方」は、渡辺ユリコ氏だったのでは? と《前編》でも書かせて頂いておりますが…。
さらに、感じたことは、昔、森水氏を非難した人は、教育評論家・細井正治氏のように、キチンと「名」を名乗って、批判していたようですが、他の「リベラルを標榜する教育関係者数名」の方々の「名」がわからないところをみると、いつの世も「匿名」で批判する人々がいたのか、と心が痛みます…。
森水氏ですら、ショックを受けられたそうなので、いつごろから、日本人は「自分がされていやなことは、人にもしない」という、日本人の豊かな「精神」が欠落していったのでしょうか。カタカムナに関わる人々にこそ、それが必要ではないでしょうか。人間であるための「真理」も、宇宙の「真理」も同じ「モノコト」でしょうから…。せめて日本人だけでも、カタカムナに関わる人だけでも、無責任な批判や批評は、しないように心掛けましょうね。今回、森水氏の「カタカムナ事件」を知って、改めて、そう感じました…。
どうか、カタカムナファンの皆さま、今、一度、「森水生士〈カタカムナ事件〉の真相を語る」の頁→をじっくりとお読みくださいませ。今までとは、違う「発見」があるかも…。
また、ここには、カタカムナの「歌」も載っておりますので、「森水学園第三分校 校歌」→もどうぞ。
森水生士(もりみずいくお)氏は、お名前に「森」と「水」と「生」があり、やはり、「名は体を表す」のでしょうね。しかし、森水学園の校舎はもはや、無くなってしまったようですが、今の世には「良きモノは廃れる運命にある」のでしょうか。悲しいですね~。
「モノコト」が残るのも、廃るのも、すべて、人間の「意識」に関わってまいりますので、今の日本国も日本人も、いつまで、残れるのでしょうか?
「カタカムナ」にしても、楢崎皐月氏や宇野多美恵氏が唱えたような「カタカムナ」が残った、といえるのでしょうか? 私自身、利用させて頂いている者としては、常に顔向けできるように、意識しておりますが…。トキと共にモノコトも移り変わる世の中でしょうか?
「カタカムナ」に興味を持たれる方々も、私のルームに来られるコトが多くなりました…。やはり、今は「流行り」でしょうか…。
幸い、「カタカムナ」の関連本が、新しい方々に手によって、次から次へと出版されておりますが、これからもきっと、楢崎氏や宇野氏が望む「真理」の本も、出るだろうと感じますので、まだ「カタカムナ」に接していない人は、一度は、「カタカムナ」に触れるのもいいかもしれませんね。その結果、「カタカムナ」を通して、自分の立ち位置や望みや本質や使命もはっきりと見えるかもしれませんので…。
ただ、私は、科学や物理を解くのに、なにもわざわざ、カタカムナ用語を使わなくても、素直に、ストレートに、今実際に使っている誰もが理解で着る、「日本語」で理解したいというのが、本当の本音でございますが、そういうシンプルな解読では、権威を保てないというか、名声を得ないというか、ビジネスや商売にもならないから、きっと価値がないと、無視されるのでしょうね。
猿にもわかる科学や物理を解くために、発見するために、「科学者」や「物理学者」が存在するのでは? 決して、実現不可能な数学ではないのですから、科学や物理は…。実験不可能で、理解できない数学なんて、この世にいらないのでは?
1-2=-1、これをこの世的に説明する学者はいる? 1個のリンゴからどうやって2個引けるの?
負の数字も、虚数も、ましてや、虚の時間なんで、なんのこっちゃ? もうそんなの、いらない!
漢数字には「0」がないが、アラビア数字には「十」がない、これはなぜ?
「ゼロ」がわかりもしないのに、ややこしい数字や概念なんて、この世に、まったく必要ない?
私たちって、知っているようで、結局、何も知らないのでは? 「無知の知」って、一体、誰のためにあるコトバ?
ありがとうございました。感謝!