直観ひとりごと(171)神社でお賽銭を捧げないとご利益は貰えない?
この(171)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(171)
◆神社でお賽銭を捧げないとご利益は貰えない?
お正月があと半月に迫っておりますが、昨今の神道系の不祥事を考えますと、神社への初詣でに行く人も少なくなるのではないでしょうか? あるいは、行こうかどうか、迷っている人も多いかもしれませんね。いえいえ、2000年もの永きにわたって植え付けられた「しきたり」や「伝統」がそうた易く変わるわけはないでしょうか…。
私は、ずっと疑問の感じていたのですが、なぜ、神社には「お賽銭箱」が有るのでしょうか?
本当に、神様は「お賽銭」など要求されるのでしょうか?
昔、ある神社を訪れると、境内の至る所に、お賽銭を入れる鉄でできた「赤い筒」が、土の中に埋められて立っているのですね。その筒には、上のほうにお金が入るくらいの小さな細長い横穴があいているのです。私は、そこの神社の宮司さんから神道や古事記の講習を受けようとしていたのですが、それを見たトキに、いっぺんに習う気が失せてしまい、それっきりになってしまいました。
細々とした神社なので、たくさんの賽銭箱を置くことは仕方のないことだろうとは思ったのですが、やはり、赤い鉄柱の「賽銭筒入れ」には、とても悲しくなり、本当に、神様はこういうコトを望んでおられるのだろうかと、首を傾げたものでした。その宮司さんは、畑仕事もしておられて、世間的には、とても良心的な宮司さんというのは分かるのですが…。そのイメージとあの「鉄柱」はおよそ異質で、マッチしないのです。この神道の世界も、何かが間違っている…。というコトは、そこで住む人たちが生活にアクセクして満足していないのに、庶民の私たちを救う、救いたいと思う余裕などないのでは? とすごく疑問に感じたのでした…。
本当に、神様は「お賽銭」を国民や貧しい庶民からお望みなのでしょうか?
お賽銭を入れないと、御利益が頂けなのでしょうか?
神を頼る国民や庶民からでも「お賽銭」を貰わないと生きていけない神道界の宮司職や神主職って、一体、何?
もしも、お賽銭を捧げなかったら、生活にあえいでいる庶民は、神様の加護も受けられず、このままずっと苦しい生活を強いられるのでしょうか?
神様は、たくさんのお賽銭を納めた裕福な人のみに、ご利益をお与えになるのでしょうか?
そんな、お賽銭をねだる神様って、本当の「神様」ナンカ、ではないのでは?
そのお賽銭で、立派な神殿やお社を建てる神道界って、一体、何?
そのお賽銭で、生活苦で喘いでいる庶民たちに、施している神社は、一体、ありますか?
そのお賽銭で、公共の児童施設や養護施設を建てたという神社は、一体、ありますか?
立派な神殿やお社などは、庶民は、決して望んではいないのです。それがわからない神道界ナンテ、神様ナンテ、いないという証拠?
もしも、全部の参拝者が、お賽銭を捧げずに、ただただ真摯な気持ちで神に感謝するのみでは、いけないのでしょうか?
もうひとつ、神社を参拝して、感じた疑問は、参拝する「順序」に関して、私が参拝する神社には「御本殿」として第一本宮から第四本宮までのお宮があり、さらに「摂社」は四つ、「末社」は六つありますが、私は、いつも「御本殿」のそれも、第三本宮までお参りしておりましたが、それも一体、どのお宮から参拝していいのか分からなかったので、ある日、そこの巫女さんに聞いたのでした。
すると「どこから参拝して頂いても結構です」と…。私は「?」と納得できなかったのですが、そのまま自分の思った通りの「順番」で参拝して帰りました。ネットで調べてもそういう情報は一切なく、結局、疑問は解消されないまま、次に、参拝したトキにも、さらにもう一度、巫女さんにお聞きしたのです。すると「一番奥の第一本宮からどうぞ」という答えでしたが、その「なぜ?」という理由には、答えては頂けませんでした。
なぜならば、他の神社の参拝方法では、一番「末席」のお社から参拝しないと、データーの保存と同じで、「上書き」されるので最後の参拝が一番参拝者に影響があるという考え方であり、一番最初に第一本宮から参拝するのは、神様は位の高い神様から拝まないと失礼に当るなどなど、どちらの理由も納得のいくものではありますが、いずれも人間智のこじ付けのように感じてなりません。というわけで、未だに私の結論は出ておらず、結局、自分の信じた順序でお参りしておりましたが、それも、もう、どうでもいいかな、と…。すべて、生きている人間が、自分たちの都合できめた「しきたり」のように納得できたものですから…。
私たち国民や庶民が、今の怠慢な神道や仏教をのさばらせた遠因かもしれません。
なぜならば、私たち国民や庶民が、神道界や仏教界が立派な神殿や仏閣を建てるコトに、何の疑問も不審も抱かずに、ただただ有り難がって、崇め奉った結果が、今の現状なのですから…。
もしも、たとえ大声を上げずとも、私たち国民や庶民が、ひっそりと、抗議する意志をもって、そこにお参りもせず、あるいはお賽銭もあげなかったならば、その神社は自ずから次第に廃れていったでしょうから…。
今回の「富岡八幡宮の事件」があっても、ただ以前からのしきたりや習慣として、きっと、何の疑問も疑いもなく、お参りする人は、たくさんいるのでしょう。多少は前年よりも数が減るでしょうが、皆無ではないでしょう。私はそちらのほうが、不思議というか気持ちが悪い…。殺害された神社に何の戸惑いも拘りもなく「参拝する」という人々に対して、ちょっと、人間としての喜怒哀楽の感情の欠如というか、長い年月をかけての「伝統」という「洗脳」のようにも感じて、ちょっと不気味…。
そういう意味では、他の神社に行く人も、きっと、あの「富岡八幡宮の事件」は例外で、たとえ一抹の不安はあっても、自分が参拝する神社はそうではないという否定したい思いで、さらに、参拝するのでしょうが、それは、やはりある意味、私たち人間は、何かにすがっていないと不安や心配が解消しないのでしょうね。私はこの「不安」や「心配」を克服した人のみが、この世を安楽にいきられるスベとも感じているので、目に見えない「宗教」が蔓延るのもやむをえないと思います。
しかし、私は昔から、ちょっと疑問に思っておりました。(「なぜ?」と思わなくなったら、生きていない証しのように感じておりますゆえ、あしからず。「人間」を止めたくありませんゆえ…。)
なぜ、『古事記』に書かれた神様たちは、醜い争いをするのでしょうか? イザナギとイザナミの夫婦の喧嘩別れ、アマテラスとスサノヲの対立、イザナギとその子供カグツチの親子間の殺害など、決して人間が模範とするような物語ではなく、さらに神様としてはあるまじき行いの数々に、なぜ、この骨肉の争いが多い物語が「神話」と言われるのか、ちょっと、解せませんが…。真の神は諍いや争いや戦いなどは決してなさらないと、強く感じます…。
そういう日本の元になる夫婦間や兄弟姉妹間の骨肉の諍いや揉めが、日本人の深層心理に深く影響を与え、現実社会でそれが、トキとして、具現化されるのではないでしょうか? 今回も姉と弟間の諍いという点においても、決して、偶然とは思えない。まるで、「神話」を地でいった?
今後、日本は、きっと、この兄弟や姉妹間の争いが、源平合戦のように、日本中を覆うのではないでしょうか? その影響は、日本を代表する「皇室」や、エリート層から顕著になるのでは?
そんな、思いに滅入っていたら、またまた、あるニュースに、一抹の希望を見出しました。
それは、野村沙知代氏の突然の訃報でした。
彼女は、世間的には、悪人、悪者として、名を馳せましたが、本当は、親鸞の言う「悪人」則ち、真の「善人」だったのでは? と痛く感じます。因みに、貴乃花親方も野村沙知代氏と同じ、「悪人」則ち、真の「善人」かも?
沙知代氏ですが、死に様と言い、生き様と言い、何といっても、旦那さんの野村監督からの絶大なる愛を勝ち取っていたのですから…。自分を悪者にして、体を賭して、大事な人を世間の荒波から、たった一人で守り抜くためには、何んと言われてもかまわないというその強い姿勢…。
これがホントの、「良妻」なのでしょうね。得てして、良妻と言われる女性は、旦那を守りもするが、自分の身分や評判もきっちりと守るという女性が多くまるで、その行為は、「名声」を得るための「目的」となっていて、得てして、それが高じると「仮面夫婦」を演じておられる場合も無きにしも非ず、なのですが、野村監督と沙知代氏は、正真正銘の「おしどり夫婦」なのでしょうね。自分が愛した最愛の夫から、最愛の評価を受けるナンテ、これぞ、妻としての「鏡」でしょうか? 生きる「命」を亡くされた、野村監督のこれからが心配です…。
世間でバッシングを浴びた人が、今後、日本の、夫婦の、模範の、鏡として、仰がれるでしょうか?
さらに、沙知代氏の「死に際」は、これからの私たち、終活を迎える人々に、理想的な「模範」を残されたのでした。ご本人は意識されず、という意味において、彼女は本物であり偉大でしょう。何の苦しみもなく、寝たきりにもならず、痴呆症も患わず、見事に、あっさりと、未練なく、あの世へと旅立ったのでした。いえ、あの世を通り越して、ご自分の元いた星に帰られたのでは…。私は、この世に未練もなく、後悔もなく、思う存分自分の人生を生き切った人のみが、生まれ変わりはないのでは? とも感じておりますが…。
そして、生前、不本意の生き方を強いられた人のみが、「痴呆症」になりやすいというコトを何かの本で読んだ記憶がありますが、それはその時代の辛いコトを忘れたいがために「痴呆」になると、あるいは、若くして成功を勝ち取った人に、年老いてからの落差に耐えきれずに現実を見ることができなくて「痴呆」になるという、二つの異なる原因もあるようですが、あなたは、大丈夫?
ここに私たち、賢い日本人の模範があります。
世間で称賛されている人や尊敬されている人よりも、世間から疎まれ、憎まれた人のほうが、本当は、人間としての人生を真摯に生き切った人ではないかと…。自分の心の赴くままに生きると、ある意味、世間や周辺からのバッシングを受けるのは当たり前ですが、それに堪えられる人のみが、最後には、沙知代氏のように、安楽死という勲章を与えられるのではないでしょうか? 安楽死とは、自分もですが、身内をも安楽に生かすという意味ですが…。そういう人は、きっと、何よりも自分のために、良しと思ったコトを信じて、人生を全うされたのでしょう。たとえ、どんな批判や中傷を浴びようとも、確固した信念のもとに…。
人間の「死に際」に於いて、宮司でありながら殺害される人も、殺人を犯す人もいれば、世間から煙たがられながら潔い死を迎える人もいる…。何が「善」で何が「悪」なのかは、神のみぞ知る? いえ、神もご存知ないのでは? 神の関知しないのが人間社会なのでは? 関知するのは、ひょっとして、悪に使える神なのでは?
そういう意味では、今の時代は、意識の変革が益々進み、善が悪で、悪が善、という正・反反対に顕れるという時代でもあります。それは大手企業の数々の不祥事を見ると納得されるでしょう。組織にそれが顕著です。相撲協会の組織にもその嵐は吹いている…。それをおこしているのは、貴乃花と白鵬でありますが、もしも、これがアメリカの野球界であれば、日本からきた「イチロー選手」が日本人の選手と徒党を組んで、自分たちの不遜な「しきたり」を守らないなら許さないと、あのような集団暴行におよんだら、一体、アメリカの国民は許すでしょうか。アメリカ国民はイチローを讃えるでしょうか? 許すでしょうか?
そういうコトが今、この日本の相撲界で起っているのですね。だから、今までの隠されていた膿が一挙に出て来たのです。これからは、膿がドンドン出る時代です。日本に影響を及ぼしている組織や団体ほど、それが顕著になって来て、日本の根幹を揺るがす時代となるでしょう。いえ、すでのその兆候が現れていいます。分かりますよね。この膿とは一体、何なのでしょうか? 決して、マスコミが言わない「膿」とは? でも、ネットではチャント、キッチリ載っているのですね。使う人によって、ネットは善にも悪にも傾く?
だから、「相撲協会」対「貴乃花親方」もやっと出て来た「膿」の一環という感じがしますし、今回の富岡八幡宮のように「姉」対「弟」は「善」対「善」であるはずが、実はどちらも「悪」対「悪」だったかもしれません。本人同士は「善」対「悪」で戦っていてもどちらにも加担しない氏子たちから観れば、迷惑千万で「悪」対「悪」の何者でもないでしょう。
これからが、日本の正念場となる時代の到来となりますので、皆さん、しっかり、褌を締めて、張り手など姑息な真似をせずに、正々堂々と、この激動の時代を、潔く、生きていきましょう。日本人は幕下力士でも「良し」と思って、あまり張り手はしないものですから…。何かの組織に身を置くと、真実は見えず、見えても語れず、いえ、闇の片棒を担ぐという不本意な役目を率先して押し付けらるという辛いことにもなりかねません。組織におもねるテレビのコメンテーターたちを見ていると、ホント、飯を食うためとはいいながら、余りにもヒドイ偏向報道には、怒りすら覚えますが、皆さんは、感じませんか?
そして、神社に行く人は、お賽銭も捧げる必要はなく、ご利益など頂くのではなくて、その土地や自然に感謝の念を捧げましょう。
そして、神社に行かない人は、自分の体の中の「神=霊=魂」を強く強く信じて、常に、感謝の念を捧げましょう。
人間は、自分の体が「お社」です。そしてそれは宇宙からの借り物です。そしてその「お社」を護るのが自分の「霊」なのです。「霊」とは「雨」と「巫」です。ゆえに、自分が「宇宙」であり「神主」なのです。宇宙の中に神主である自分がいて、地球の大地にお社である「体」をもって生れてきたのです。
だから、人間として生まれた人は、すべての「神」なのですね。
感謝、感謝、感謝!!!