直観ひとりごと(294)なぜ、オリンピックとパラリンピックを分けるの? 分ける必要がある?
この(294)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(294)
◆なぜ、オリンピックとパラリンピックを分けるの? 分ける必要がある?
とうとう、パラリンピックも終ってしまいましたね~。彼ら、彼女らの真摯な奮闘には、頭が下がります。
命の尊厳って、ホント、偉大ですね~。ありがとうございました。
健常者と身体障碍者(この言葉もちょっと、抵抗がありますが…)とを分けて、違う日に、別々に名前まで変えて(オリンピックとパラリンピック)、開催する必要があるのでしょうか? なぜ、一つのオリンピックとして、開催しないのでしょうか?
オリンピックとパラリンピックという二つの大会があるということが、ちょっと、私には解せませんが…。それが、既に、差別していることになるのでは?
もしも、どうしても、一緒に、開催できないのであれば、まずは、先に、パラリンピックから、ではないでしょうか?
なぜならば、オリンピックを、最初に、あれほど、盛大にやれば、もう、満腹状態で、後は、あまり見る気がしないのでは? スポーツを見るのが、好きな人であれば、いいのですが、私のような、それほど、熱心でない人間ならばなおさらで…。
だから、「熱意」というものが、オリンピックとパラリンピックでは、ちょっと、違うのですね。そして、その「違い」を色々考えると、何だが、自分を責めたくなるのですね。やっぱり、私はオリンピックのほうが、熱心に見ているのでは? パラリンピックのほうを蔑ろにしているのでは? と…。パラリンピックを、あまり熱心に見ない、私としては、ちょっと疚しさを感じるのです…。
だから、オリンピックとパラリンピックを分けるから、いけないのではないでしょうか? でも、一緒にするといっても、競技自体は、別々でいいのですよ。
それが、無理であれば、まずは、最初にパラリンピックにするべきだと、思います。それができないのであれば、やはり、平等ではないような…。
パラリンピックが、無事、終わって、何だか、モヤモヤしたものが残ってしまったので、それを、ちょっと、見つめてみました…。
オリンピックとパラリンピックが分かれているのも当たり前、先にオリンピックがあるのも当たり前、を「当たり前」と思う心をちょっと、見直すと、違う目線で大会が見られるかも…。
いくら差別をなくそうと言っても、なかなか難しい気がします。なぜならば、差別と区別の違いもあいまいで、あやふやなのですから、ね。
まして、私たちは、普段は、それほど真剣に、考えてはいませんものね。さらに、一緒にすれば、膨大な経費も、少しは、抑えられるかも?
だから、これからは、健常者と身体障碍者の、どんな大会でも、一つの大会として、開催すればいいのでは? 別に、一緒に競わなくても、「部門別」に分けることは、可能なのでは? あえて、それをすることに、意味があるのでは?
それには、まず、オリンピックやパラリンピックという言葉もなくし、そういう分け方もやめましょう。一つのオリンピックで、その中で、区別する!
これも、日本だけで、好き勝手に決められる問題でもない、ところに大きな問題がある?
パラリンピックの閉会式を見ていて、感じた、次第です。ありがとうございました。
ありがとうございます!
笑顔で!
大丈夫!
幸せです! と、唱えましょう。