ことわざカウンセリング(7)「言葉多きは品少なし」
この(7)「ことわざカウンセリング」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★ことわざカウンセリング(7)
◆「言葉多きは品少なし」
マスコミの影響なのか、一般の人が、ネコも杓子も、タレント並みに、テレビに出てきて喋るのが普通の世の中になりました。
「言葉多きは品少なし」でしょうか…。ことわざカウンセリングに関するブログです。
まともにテレビに堂々と「顔」を出して、喋るのならばまだしも、モザイクのかかった暴露番組や音声不明のトーク番組がひきもきらず、といった有様です。
テレビに出る以上は、最低限でも、身分を明かして欲しいと思います…。
●「言葉多きは品少なし」
軽々しいおしゃべりは、いかにも品位も威厳もないことをいう。詞多くして品少なし。言葉は心の使い。『ことわざ事典』(日東書院)より
しかし、日本には昔から言霊思想があり、言葉は言揚げ(ことあげ)しないのが良しとされていたのです。
現在も“黙して語らない人”が尊敬されていて、それは今でも心の片隅に残っています。
面白おかしく参加してはいても、どっこい、視聴者は、心の中では軽蔑をもって見ているのも事実です。
当事者の意識と傍観者の意識とでは、日本人ほど二重構造を持っている国民も珍しいのでは、と感じます。本音と建前の文化…。
「以心伝心」や「あうんの呼吸」の良さは、風化してし まった感もありますが…。
やはり「沈黙は金」の格言は生きているでしょうが、それは玉虫色の金に成り下がっているのでは?
ところで、日本では昔は、「金」より「銀」の方に価値を置いていたのをご存じでしたか?
これは、また別の機会に…。
皆さん、ゆめゆめマスコミに踊らされてはいけませぬぞ!
黙っているほうが話すことよりも価値があるのはわかりますが、一口に「しゃべる」といっても「喋る」「語る「話す」と色々あって、その言葉に秘められている深層イメージも複雑です。
「喋る」という文字には“多言する”という意味があるがこれは何となく納得できますね~。
「語る」という文字は言べんに吾と書き、「話す」という文字は言べんに舌と書く。
昔の人は「話」よりも「語」の方に重きをおいていたのでしょうか。
●「語」
◎「「語」 はなすという意味の他に“鳴き声、ことばに代えて、手や目で知らせる”という意味があり、一方の「話」には、“ものがたり、実際のことでない、または作りかえたもの、うわさ、わけ、事情”という意味がある。(『明解漢和辞典』三省堂)
現代の日本人は、「語る」という言葉をもう死語にしてしまったのかも知れません。
想像するに、昔の日本人は人にはなす時には、一度、 自分の“吾れ”に、それが真実か、相手に伝えても良いかどうかという問いかけをしてから、語っていたように思えてなりません。
そして、それが伝えないほうが良いと思った場合は、あえて、言揚げしない方法をとっていたように思います。
そういう意味では、「語る」は、自分の心の中から発しているが、それを必要とするのは相手であり、自分の言葉だけれども、口から出てしまえば、それはもう相手に捧げているので、相手の言葉になるというわけでしょう。
相手といっても常に対象があるとは限りません。
八百万の神々に向かっての言葉でもある。
「ありがとうございます」「いただきます」「ごちそうさま」「すみません」「おはようございます」「こんにちは」等など……。
また、「話す」という言葉は、頭で考えて、何の思索もないまま、すぐ舌で喋っているに過ぎない場合もあります。
「二枚舌」「舌禍」「舌打ち」「舌の根も乾かないうち」等、舌には殆ど良い意味はない。それには本心が伴わないので、発した言葉に責任がなくて当たり前なのでしょうか。
無責任に発する人が増えれば増えるほど、言葉巧みに騙す人も出てきて当然なのでは?
色々辞書をひいていたら、とても変なことに気がついたのです。
「吾」という文字はもう当用漢字にはありません。
今は「我」に置き換えられているが、「我」という文字も余り良い意味ではないのに…。
これはとても大変なことではないでしょうか。
心へんに吾で悟るという文字ができているのに、心へんに我では、一体どういうイメージになるのでしょう。
吾れのない人間、吾れを見つめることができない人間が増えて、我れを通し過ぎる人間、我しか見えない人間が増えれば、世の中悪くなっても仕方がないのでは?
今の日本を覆っている現状は、こういう点からも考えていかないと、解決策は見えてきません。
21世紀の今だからこそ、国民全員がもう一度、「話すとは?」を、それぞれがそれぞれの立場で問い直して見ようではありませんか。
私は、漢字から、「漢字とは?」ももう一度、日本人として、見直して見たいと思っています。
なぜなら、漢字は、日本人の「文字」ではなかったのですから…。