心のお薬になる本(65)『この世とあの世の風通し―精神科医加藤清は語る』加藤清/著&上野圭(聞き手)
この(65)「心のお薬になる本」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★心のお薬になる本(65)
◆『この世とあの世の風通し―精神科医加藤清は語る』加藤清/著&上野圭一(聞き手)
今回、ご紹介する本は、精神科医加藤清と民間医療家上野圭一の対談の本です。「テーマ」は、日本人として、誰もが疑問に思っていることを、お医者さんの目線で、書かれています。
形式としては、上野氏が質問されて、加藤氏が真摯に答える形なので、話し言葉で話されていますので、とっても分かりやすい内容になっております。
この本をなぜ、紹介させて頂くかと言いますと、医療関係のお二方の対談なのに、なぜか、「カタカムナ」の話題が出てくるんです。それで、今回、取り上げることにいたしました。本の主旨とは若干、ズレますがお許しください。
しかし、「カタカムナ」は最後のほうに、ちょこっとだけ話されていますので、そのちょこっとが、とっても重いというか、スゴイ!
なぜならば、この本では、加藤氏が受け身というか、ご自分からは話されず、ほとんど上野氏の質問を受けてという形なのですが、唯一、「カタカムナ」だけは、加藤氏から上野氏に質問されているのですね。加藤氏はよほど「カタカムナ」のことをお話ししたかったのでは? と感じたのですね。なぜ、話す必要があったのでしょうか?
だけど、「カタカムナ」だけ知りたい人には、物足りない本かもしれません。なぜならば、私も全く、「カタカムナ」など期待せずに、読んでいて、最後にほうで、「カタカムナ」が出てきたので、もうビックリした、という感じ!!!
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《抜粋》p191~p194
●言霊の力
(加藤)ところで上野さんは、カタカムナというのはご存じですか。
(上野)―一応は。
(加藤)ご存じですね。僕はそれをちょっと利用して神話としてとらえているんです。カタカムナ神話。「カタ」というのは形があるということで、「カム」というのは形がないということ、「ナ」というのは前にも言った根源的主体性に呼びかける音です。「あなたな」とか、「そうな」とか、「あのな」という語感ですね。(中略)その「な」というのはすごいんですよ。音韻が持つ力。「な」というのは本当に根源的主体性に呼びかけている音韻なんです。「な、あんたな」。本当に何か言うときに、「あんたな、よう考えんとあかんな」と言うでしょう。その「な」というのは心がこもる。そういうものを治療中に使うわけです。英語では絶対に表現できないんです。「な、それやな、わかったな」。
(上野)―「わかったか」とは全然違いますね。
(加藤)「わかったな、それやな」。なんとすばらしい日本語だろうと思う。カタが形、カムが形のないこと、ナはそういう主体性。だから、カタ・カム・ナ、形あるもの、形のないもの、そういうものが寄って一つの主体を形成しているという神話がカタカムナにあるわけです。「カムカエル」というのは形のないものに帰っていくこと。日本語の「考える」とは、そういうことなんです。物質的な世界から離れて、形のない世界に向かうこと。したがって、考えるとは本来、スピリチュアルなことなんです。
(上野)―カムというのは「神」ととってもいいわけですか。
(加藤)「カミ」というのは「カム」プラス「ミ」、「カムミ」から来ています。「ミ」というのは「身」です。アイヌでもカムイと言っている。これは縄文的な言葉だと思います。
(上野)―おそらくそうでしょう。
(加藤)日本人は「考えたらいい」と安易に言うけれども、本当は形のないもの、カミにかえっていくようにしようではないですか、ということを「考える」と言っているわけです。だから、日本語の音韻の持つ深さを自分の中に取り戻し、それによって日本人の心の深層をつかっていかなければいけない。深層と言っても、それは僕らが日常生活の中で使っている言葉に表れている。そこをもっと自覚していけばいいと思います。
(上野)―セラピーでは言葉が大切になりますね。
(加藤)臨床をやっていると、日本語の表現力が非常に大切だと思うことが多いんです。たとえば擬音。水が「さらさら」流れるとか、夜が「しんしん」と更けるとか、横になっている状態を「ごろごろ」しているとか、こころが「ころころ」変わるとか。「ころ」というのはものすごくいい言葉です。コロリといったとか(笑)。「ころ」という言葉は非常によく使われている。こころというものはころころしたもの。どんどん変化しているというイメージをちゃんと持っているんですね。「うつ」ということでも、「うつろ」というのは何もないことですね。
(上野)―なかが空っぽになっている。
(加藤)だから、うつ(鬱)病というのは「うつ」になった、空っぽになったということだ。「うつ」というと現実的世界を表わす。「うつそみ」というとこの世に生きる人。「美しい」は「うつくし(ウツ奇シ)」です。さきほど言った無常美にも「うつ」ということが入っているんです。ビューティフルとは違うんですよ。「うつ」が入っているんです。やはり、日本語はすばらしいと思います。
幼稚園なので、「みなさん、わになってごらん」と言うと、輪になりますよね。「わ」という言葉には非常にたくさんの意味があります。平和の和もあるし、わっと騒ぐ「わ」もある。「わ」という一言は、状況によってさまざまな意味をもつ。「わになってごらん」と英語で言おうと思うと、いろいろなことを言わないといけない。
これはドナルド・キーンさんがよく言っているようですが、「水をうつ」という表現がありますね。この「うつ(打つ)」は、英語で言う「scatter」(まち散らす)ではない。「うつ」のニュアンスは訳せません。「水をうつ」とは、なんと美しい言い方だろう。「水うってきて」を「水をまいてきて」と言ったら、全然意味が違う。「水をちょっとそこへうっておいて」。すばらしい言葉ですね。
また、「お茶をたてる」「操をたてる」と言いますが操をたてるなんて非常にいい言葉です。
(上野)―いい日本語ですね。
(加藤)それから、「うつわ」(器)というと空間を表わす。「うつる」(移る)というと時間を表わす。時空間を「うつ」という言葉で表わしてしまう。
それと、「私」とか「僕」とか全部治療中に変わってくることがあります。(後略)
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いかがでしょうか? 「カタ」と「カム」と「ナ」。それらを含めた日本語の重要性…。
さらに、加藤氏は、特にこの「ナ」が重要だと言われる。私もそれは同感です。この「ナ」の小円の位置がとっても重要で、縦線の真下にあるのが、とっても重要…。
その「カタ」と「カム」を「カタ」「カム」たらしめているものが「ナ」である、感じます。…。
私は、「カタ」は、形で、この世で、物質で、肉体で、卵子で、女性で、陽で、火で、太陽で…。「カム」は、無形で、あの世で、精神で、精子で、男性で、陰で、水で、月で…。だから、男女は、陰陽で、左右で、上下で…。
そして、一番、言いたいことは、その「ナ」の存在。それが「名」であり、それが神様の「名」で「神名」であり、それが人間の「名前」であり、だから、今世で使用する「本名」が重要だと感じたのですね。
だから、「姓名本質リーディング」に行きついた…。それが「カタカムナ」から「古事記」に、それが「古事記」から「神名」に、それが人間の「名前」に、そして、「名前(姓名)」則ち、「本名」から今世の「本質」と「使命」に、ゆえに、それらを探るのは自分の「名前(姓名)」しかないと…。
しかし、「カタカムナ」は、違う「心」を持つ人間が関われば、「ころころ」変わり、全部、解釈が違って当たり前。いかに自分の信じる自分の「モノにできるか」が「カタカムナ」がカタカムナたる所以でしょう。カタが見えても(わかっても)カムが見えないので、わからないのは当たり前であり、だから、なんでもありかも…。自分の都合のいいようにやったもん勝ちかも…。
他人の「考え(解釈)」の「カタカムナ」に、いかに踊らされないようにするか…。楢崎先生と宇野先生の「解読」も違って当たり前、だから、違うことに意味がある。
ゆえに、誰の「カタカムナ」を信じるかが、それぞれが試されることになる…。誰に試されるかって? それは「カム」に?
どうか、皆さんも人のお仕着せの「解釈」に満足せずに、ご自分の「カタカムナ」をモノにしてくださいね。それが、それぞれの「心」ある人としての生きる「価値」があるのですから…。
私は、以前、日本の信じるにたる有名な霊能者で「カタカムナ」や「カタカムナ文明」を唱えている人をかたっぱしから探したのですが、全部徒労に終わり、「カタカムナ」を主張したり、認めている人は皆無でした…。昔昔の神代の日本人の意識には「カタカムナ」などという概念はなかった? だから、そこから、答えを導きだしていったのですね。
また、旧石器時代や新石器時代が日本にもあり、それらからも、カタカムナの「図象符」を調べていったのですが、これもやはり見事に皆無、無かったのでした…。全く石に刻まれていなかった「図形」なんて、ナンカ、変? なのに、物理学者の楢崎皐月氏だけが「カタカムナ」が主張される…。これ以上は、またお叱りをうけそうなので、止めておきますね。さわらぬ「カタカムナ」に祟りなしが、私の今の心境です。
ただ、「カタカムナ」に関わって感じますに、その関わった人の信じている、あるいは信奉している「モノコト」に、「解釈」が影響される、左右されると、イタク感じます。神道を信じる人は神道思想に、仏教を信じる人は仏教思想に、西洋思想を信じる人は西洋思想に、東洋思想を信じる人は東洋思想に…。
私のことを言えば、小さい時は、ヨガに、成人するころには姓名学や算命学や風水に、それから仏教に、さらに神道に、さらに古神道に、そしてアイヌや沖縄やサンカや縄文思想に、さらに埋もれてしまった「モノ」に、と今もまだ遍歴しておりますし、それらに良くも悪くも、肯定的にも否定的にも、影響を受けているといっても過言ではありません。それらを全部、全部、呑み込んでの、私が感じた「カタカムナ解読」なのですね。
だから、私は、もう、「カタカムナ」から離れて、自分独自の「図象符」の解釈をしておりますので、それも他のいろんな埋もれている価値のある「モノ」からヒントを頂いて、もっともっと進化させたいと思っています。そして、これからも益々その遍歴と言うか、進化をする所存でございます…。
しかし、「図象符」を世に出してくださった楢崎皐月氏や宇野多美恵氏には感謝の念でいっぱいです。これがあるから、私の「姓名本質リーディング」ができたのですから…。
この「名前(姓名)」から「自分」を巡る「旅」は私が死ぬまで続く「旅」であり、それは私が「日本人」としての「旅」を終えるまで、続くことでしょう。それは「死ぬ」まで続くと確信しています。
もうこれで全て分かった、終わりだ、と言う人は、私は信用しない。ずっと研究、ずっと勉強。それが人間として生まれた理由でしょうね。そういう意味で、今回の加藤清の精神科医としての姿勢に、イタク感動した次第です。
精神科医という身分に拘らず、患者を治す、助けるという使命のもと、ご自分の琴線に触れた「モノコト」には、真摯に対峙するという、アカデミズムで生きる人には、超~珍しい医者だから…。
「わからない」からこそ、ずっと続ける価値があり、生きる意味がある。
もうこれで、自分の研究は終わったとうそぶく人は、真の研究者ではないと思う!
それでも、今の不完全な状態でも、本は出せるし、カウンセリングもできると確信しています。
一生、勉強。一生、研究。
神道に「学ぶとは、反面、疑うことで、悩み苦しみ、究明することである」と…。また、禅の臨済の言葉には「疑わざるはこれ病なり」とあります。それらは、則ち「なぜ?」「何?」 「何ぞや?」 と「心」で疑問に思い「心」に問い続けること、ではないでしょうか?
それは、私にとっては、一生、生きる指針。生きる目標。生きる使命…。
皆さんも、一生、何かを追い求めてくださいませ。
きっと、生きる張り合いがでますよ!!!
だから、もう「カタカムナ」は終わりと思っても、これでもか、これでもかと、コトあるごとに出会うのですね。
知りたい「答え」が…。
だから、勉強する意味がある…。
こいつぁ~、今年も、正月から、縁起が、いい~わい!
正月早々から、勇気を頂いた「本」でした…。
感謝、感謝、感謝!!!
このブログとの関連のテーマは、直観ひとりごと(214)「カタカムナ」を精神科医 加藤清が語る…。→