心のお薬になる本(58)『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』岸見一郎,古賀史健/共著
この(58)「心のお薬になる本」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★心のお薬になる本(58)
◆『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』岸見一郎,古賀史健/共著
今回ご紹介する本は、ベストセラーの本『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(岸見一郎,古賀史健共著)ですが、本当に、「心のお薬になる本」なのかということを、ちょっと考えてみたいと思い、取り上げることにいたしました。
結論から申しますと、アドラー心理学は、すでに精神を病んでいる人々には、ちょっとキツイような気がいたします。
また、世の中での低位置で生きる人々や上下関係の下で生きる人々、つまり、ビジネス社会での雇われる人、会社での平社員や女子社員、お店の店員等、あるいは、家族関係での子供の立場、兄弟姉妹関係での弟や妹等、さらに、徒弟関係での弟子や生徒等、親分子分関係の子分の立場の人々、つまり弱い立場の者にとっては、中々応用するには、難しいモノがあると感じます。
ということは、病気でない健康な人や、世の中の上層部やエリート層、また社会での雇う側の人々、あるいは、家庭での両親や兄や姉、さらに、先生や教授や親分等にとっては、それなりに、参考になるともいえるでしょう。
要するに、アドラー心理学は、弱者側の人間にとっては、実現するには、非常に努力を強いるものであり、また、環境を変えるなどしないと、ともすれば、「机上の空論」になりかねないものだともいえるのです。
しかし、生まれてきた「宿命」を変えることは不可能に近く、現に、アドラー自身が、兄との関係は決して良好だったとは言えず、結局、克服することはできませんでした。
また、妻とも100%幸せであったかというと、決して安らぎのある家庭とはいえず、そこからの現実逃避のために、仕事に打ち込み、一生けん命、働き通したともいえるのです。それは、彼の働く身分が、医師であり、教授という恵まれたエリートであったために、虐げられる立場でなかったがゆえ、家族や家庭の辛さから逃げる場があった、目を背けることができたともいえるのです。
もしも、逃げる場所が、もっとツライ環境であったならば、彼は、自分の理論を打ち立てられたかは、甚だ疑問に感じてしまうのですね。それが、彼の理論が、死ぬまで実現不可能だとも、机上の空論とも言われるゆえんなのでしょうか。
日本の普通一般の人々は、ツライ立場での労働を強いられて、やっとそこから解放されて、家庭での安らぎを求めたいけれど、家庭も思うようにはままならない、だから、世の男性方は、古今東西、盛り場を徘徊するのではないでしょうか。その証拠に、近年では、女性の社会進出と共に、女性が居酒屋での常連客となっているともいわれます。別にアドラー心理学が「ブーム」になったからといって、なんら精神的負担や心理的意識は軽減していないのです。
アドラー心理学を応用できる環境の人々は、この日本では、ほんの一握りの恵まれた環境で生きる人々だけなのでは、と痛感いたします。それらの人々にとっては、それはそれは素晴らしい理論だとも申せるでしょう。だから、100%ダメなものでもないのですね。
アメリカでは、アドラー心理学が絶大な人気を博していましたが、しかし、現実には、エリート層やある程度裕福な層でも、精神科医にかかるのは普通のことであり、それは必ずしも、アドラーだけでは効果を上げられない証拠ではないでしょうか? 底辺での生活に余裕のない人々なら、なおさら、アドラーなど机上の空論と申せましょう。
アドラー心理学は、「個人心理学」といわれますが、それは社会主義を意識した中でのことで、私は、アドラー心理学とは、「目標の心理学」と感じています。しかし、目標すら持つことのできない人々も、この広い世の中には、一杯いて、日本でも食べるだけで精いっぱいという人も多く、情報化社会の今の世の中では、二極化は益々進み、大学も諦めなければならない人も多いのです。そんな中では、アドラー心理学はある意味、「毒薬」の役目を果たしかねません。
日本の心理学会の流れでは、過去には、フロイトやユングが注目され、さらにアメリカのロジャーズやマズローが、持てはやされました。現代の心理カウンセリング業界では、パブロフの犬で有名になった行動療法やエリスの論理療法やベックの認知療法等のドッキングによって、認知行動療法が主流になっておりますが、これらの中にはアドラー心理学が多分に含まれています。
昔々、私が若い頃に心理学を学んだ時には、カウンセリング業界では、アルフレッド・アドラーは、全く注目されませんでした。やはり、彼自身が社会主義者だったということが、昔の封建的な日本では受け入れ難かったのでしょうか。
なぜ、アドラーは、過去の日本では、フロイト、ユングに継ぐ第三の心理学として定着しなかったのでしょうか。それは、やはり、彼の理論は、精神を病む人の治療法にはなりがたく、日本に入ってきたのは、教育方面や家族方面からのアプローチに対してでした。
しかし、それに反して、ビジネス界には、かの有名な「マネジメント」のドラッカーや「七つの習慣」のコヴィーや「成功哲学」のカーネギー等が、さらに、NLPやコーチングにもアドラーの影響が色濃く関っており、ビジネスに関わる方々には、こちらのほうで学ばれた方々も多いと思います。
それが、数年前から、突如、亡霊の如く、アドラー心理学がブームになってきて、やはり、時代は生き物で、トキは変転するものだと痛感しております。
要するに、アドラー心理学は、健康な人の「哲学」であり、ビジネスで成功するための「技術」であり、社会人として自己実現するための「ツール」としてとらえれば、より納得がいくでしょう。
『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』は、それなりに、共感して読めるのですが、『幸せになる勇気』はちょっと薄っぺらな感じがいたします。
なぜなのかと、よくよく考えてみますと、それは、著者である岸見一郎氏が、全く世の中で「労働者」という立場で生きた経験がない方で、彼がその本で指摘されているのは「子供」に対してのことだけであり、実際に、雇われたりしてドロドロとのたうち回った経験がなく、庶民の苦しみや哀しみを実感として捉えておられないため、なのではという思いに至りました。
世間の精神科医が、なぜ、精神を病む患者さんを治せないのかという最も大きな要因は、やはり、彼らには患者さんの思いというか、心理というか、精神を体感として実感できない、いえ、実感しないからに他ならないため、ではないでしょうか。
人の痛みや苦しみや哀しみが理解できないから、「薬」に頼るしか治療方法がないのでしょうね。しかし、「薬」に頼ったからといって完治するとは、いえないのですね。
そういう意味では、岸見一郎氏の『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』というベストセラー本は、精神科医が、安易に投薬する「薬」のようでもあるのでしょうか。
なぜなら、それは一瞬で利いたように錯覚する「薬」の役目に似ていて、利く人には利きますが、利かない人には「毒薬」にも似て、効果がないと判れば、ショックと、自己嫌悪に陥り、余計にも自信喪失がひどくなり、益々症状が悪化するのではないでしょうか。
生きにくい世の中で必死に生きて、その挙句、苦しんでいる人々にとっては、どうにも避けられない「人間関係」でお悩みの人も多く、上下関係の過酷な底辺からの苦しみにあえいでいる人も多い中、地上の上から目線での理論や学説は、一握りの「心理学」ともいえ、庶民にとっては、「無用の長物」にも等しいといえるでしょう。
また、この日本では、アドラー心理学と称する組織の中で、二つの組織、東の「ヒューマン・ギルド」と西の「アドラー・ギルド」が対立しているそうで、ちなみに、岸見一郎氏は西の「アドラー・ギルド」、すなわち日本アドラー心理学会の理事という肩書だそうです。
そういう対立があるということが、もしもアドラーが生きていれば、ちょっと、眉をひそめられていることでしょうね。人を魅了してやまないアドラーであり、人間関係には長けたアドラーだからこそ、きっと草葉の陰からお怒りかもしれません。
ということで、私は、やっぱり、直接のアドラー心理学よりも、それから影響を受けたマズローの人間性心理学の方に魅力を感じていますが、もしも、日本から資本主義社会がなくなれば、その時こそ、真の意味でのアドラー心理学の独壇場となるだろうという予感はしておりますが、今の現状では、まだまだ…。
でも、心理学やカウンセリングに興味のある人は、一度は読むべき本であることは間違いのない事実でしょうが、それを踏まえてうえで、自分にしかできない社会経験や実践を通して、この学説が「机上の空論」であるかないかを、「心眼」をもって見抜かえ、確かめられるといいでしょう。
ちなみな、あのアインシュタインは、フロイトもこのアドラーも、共に価値ある心理学であるというスタンスでした。さて、あなたは?