直観ひとりごと(170)神社には国民を守る「神様」はいない?
この(170)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(170)
◆神社には国民を守る「神様」はいない?
ちょっと偶然とは思えないニュースに、背筋がゾ~としております。
私は、12月6日に、「直観ひとりごと」の「(236)「ノコッタ」と言いながら、日本の相撲を残せない「伝統」なんていらない?」というブログの最後で、「神社や神主や宮司も、もはや、この日本国には、いらない? だったら、神主も宮司も、モンゴル人や外国人に明け渡したら?」と書き綴った、そのあくる日の夜、「宮司さん殺害事件」が起きました。
それは、12月7日の「富岡八幡宮女性宮司殺害事件」というニュースで、東京・江東区の富岡八幡宮の境内で女性宮司・富岡長子さんが弟に殺害される」という神道界において前代未聞の悲惨なニュースでした。
私は、かつて、神主になるために、奔走したものですが、色んな壁に突き当たり、あきらめざるを得ませんでした。それらの規制は、「世襲制」が大手を振ってまかり通っている現状では、まるで普通一般人には神主にはなれないような仕組みとしか感じられず、たとえ関連の大学を出たからといって、有名な神社の神主にはなれないということなのです。そろそろ世襲制の壁を取っ払わないと、これが日本の国をダメにしている一因かもしれませんね。
また、なぜ、「神主」になりたかったかと言うと、神社で「日本式のカウンセリング」を行いたかった、その1点のみが理由でした。神社内の崇高で神聖な雰囲気の中で、カウンセリングを行えば、相談者様にとっても、きっと良い効果が現れるだろうと信じたから、神主になれば、それが実現するのではと、思ったからでした。そのために、2,3の民間の神主の養成講座をうけましたが、期待に反して、やっぱり…。
私の理由も不遜と言われればそれまでですが、そんなわけで、神道界に興味を持ち、いろいろ調べて、ちょっと行動に移しただけでも、「あ~、なんと汚い世界なのか!」と痛く感じ、それ以来、もう二度と神主なんて、バカな考えを起こすのは止めようと心に決めたものでした。
その思いは、きっと、イソップ物語の「キツネと酸っぱいブドウ」のお話のキツネと同じ、悔し紛れという感も否めませんが、兎に角、古い伝統に胡坐をかく「社会」では、人間の、男の、醜さが、モロ露呈する場所だなぁと、寒心に堪えない気分を味わわされたことを、つい昨日のように思い出します。
だから、相撲の世界も、それと同じような汚い世界ではあるという思いが払拭されずに、もうそろそろ「伝統、伝統、伝統」と騒ぐのは、よくないのかもしれないとも、最近つくづく感じておりました。「伝統」も1000年も経てば、その「伝統」を維持するために、また「無理」が生じてきて、その「無理」の上塗りをするようにさらに「無理」が生じた結果、国民のほとんどは、わかっているけれども、「コトアゲ」しないで、スルーするという歪な現実がこの日本なのでしょうね。
そもそも「言葉コトアゲせず」って、本当の意味は、征服者や権力者が、自分たちのヤバイ過去や行為を隠すために、国民に「コトアゲすべからず」というキツイ風習をつくったのでしょう。それは明治から昭和の時代をみれば、納得いくことでしょう。それの意識が今また蘇って、国民は「モノモウス」ことを禁じられているようなそんなイヤな雰囲気を感じてなりません。これは今後この国の国民に大きな影響を与えるでしょうね…。もう、一部の社会では、実現しているのかもしれませんね。いよいよ、絶対絶命の、日本人かも…。
さらに、公のマスコミでは絶対ニュースにはなりませんが、ユーチューブでは、「出雲の宮司夫婦の離婚」が取りざたされるに及んでは、結婚を司る神社の宮司の離婚話ナンテ、シャレにもならないし、もしも、それが本当に実行されたならば、即、エセ神社は廃業でしょ! なぜなら、看板に偽りありで、出雲の結婚の神様ナンテ、居ないという証しだから…。人間だけを護る「神様」ナンテ、もともと居ないのかも?
そういう意味では、今回の「宮司さん殺害事件」の背景には、富岡八幡宮の姉弟の骨肉の争いが、10年以上にも及んで繰り返されていたそうで、神に仕える選ばれし身ともあろう人間たちが起こす争いだろうかと、冥福を祈る前に、首を傾げざるを得ないのです。きっと、周辺の人たちは、尊敬などまったくなく、神社にはふさわしくない人々だと困惑していたのでは? 選ばれしエリート層の人々が普通の一般庶民に軽蔑されるのが、これからの日本の行く末でしょう。「日本人よ、早く目を覚ませ」という宇宙からのお知らせなのかも?
神職や仏職に携わる人たちは、あくせく汗水垂らす「労働」ではお金を稼がず、国民としての義務である「税金」も払わず、かと言って、国の有事も避けること能わず、さらに、国民の生活も護らず、立派な神社の中で、綺麗な着物を着て、美味しいものを食べているのでしょうか? そろそろ宗教界の「税金免除」も見直す時期に来ているのでは?
そもそも、衣食住において、国民の生活がままならず、働けど働けど、持ち家の一戸も持てず、税金を払うのが精一杯という庶民が多い中において、それを知らんふりして、立派な神社に鎮座ますます「神様」って、本当に、国民のための「神様」なんでしょうか? いえ、神社に「神様」なんているのでしょうか? たとえ、いてもそれは本当の「神様」などではないような…。
私は、ダンダン、おかしいという気持ちになってきていたのですが、今回の、一連の神道世界の不祥事で、やっぱり、「神様」なんていないのでは? と感じるようになっております。神様って、やっぱり、昔に死んだ人々の霊魂であり、それは「作用」や「働き」を現すのでは? そもそも「霊魂」というのも、ナンカ、ちょっと怪しくなってきますが…。
最近は、神様関係の書籍が氾濫しておりますが、真の神様なんて、人間に直接影響を与えない、感じられないと、私は確信しております。人間にかかってくるのは、みんな昔に死んだ人間が「霊魂」でしょう。
宇宙の光である「神」は、決して、人間に「示し申す」なんてコトはしないと思います。特に、高貴な神(?)と言われる神ほど、人間には干渉しない、のでは? もしも干渉したら、たちまち、身体は焼け焦げてしまうでしょうね。低級な霊や魂、特に動物霊ほど、人間にとり憑きますので、ご用心、ご用心。
私もよく神社にお参りにいくのですが、お参りするときの「しきたり」にも疑問が湧いてきます。
それは、なぜ、お参りするときに、自分の名前や年齢や住まいを言わないといけないのか? 神様ならば、そこへ行くだけで、どこの誰が来たのか、全てわかるはずでしょうし、もしも、名前を告げないとわからないというのは、それは「神様」ではなく、人間の「霊魂」でしか、ないのでしょうね。それも、この世に強い念を残した「怨霊」ともいえるような…。
さらに、神社のしきたりを習っていたトキに、足の運びや手の置き方、おじきの仕方など、それはそれはややこしくて厳しい作法やしきたりがあるのですが、そのトキも、なぜ、神は自分が体を持たないのに、こんな難しいコトを人間に強いるのか? ととても変な感じに陥り、こんなモノは人間が決めたモノで権威付けするためだけなのだ、この自分の直感を大事にしなければ、とイタク確信した覚えがあり、それとともに興味も失せてしまいました。…。
そもそも神社とは、騙し討ちにされた人間の「怨霊」を封じ込めるために建てられた建立物が多いそうなのですよね。だから、神社や仏閣の建った元の土地は、本当は、清い澄んだ場所ではないのでは? だから、怨霊を鎮めるために、それを封印するために、その上に神社仏閣を建てたのでは? だから、パワースポットともいわれる場所は、本当は、良いスポットではなくて、「霊魂」や「怨霊」にとって留まりやすい場なのでは? だから、パワーがあって当然でしょう。それを有り難がるのも、人間の過去からの刷り込みから…。
だから、今回の「富岡八幡宮女性宮司殺傷事件」も、そういう風に考えると、決して在り得べかざる出来事でもなく、有り得べき出来事とだとも言えましょう。過去の怨霊のせいで、事件が起こった? その富岡八幡宮が「相撲」に縁のある神宮ということも、今回の「相撲の不祥事」と全く、関係ないことはない? 偶然は、この世にはないのだから…。
そして、今は、神社にも神様はいないし、この世にも、あの世にも、神様はいないのでは? と思うようになっています。真の神様というのは、本当は、宇宙の「意志」でそれは「光」であって、私たちが信じる神様とは、昔に人間の体を持って生きていた人々で、彼らが死んで、もと居た星にすんなりと帰らずに、人間の欲や念を残したまま留まった所が霊界や幽界となり、自分は神だと信じた為政者や権力者たちが作った所が神界となってそれがエネルギーをもって、一つの帯を形成していったのでは? と感じています。要するに、すべて、神界も霊界も幽界も人間の執着心でできた世界では? 最近は、幽界が無くなったと言われますが、ならば、きっと、霊界も神界もなくなるのは、時間の問題でしょう。全部無くなったトキが、人間がすべて平等に幸せに生きられる素晴らしい世界の到来では?
しかし、人間に幸せを運ぶ「神様」はいないけれど、災いをもたらす「悪神」や「悪霊」はいるだろうと感じます。それらが「善神」の顔をして、この世に災いを起こしているような…。
それらの「悪神」や「悪霊」は、結局、死んだ人間の思いの念が、凝り固まって、「幽界」や「霊界」という世界を作ったのでは?
「神界」というのも、人間の思いでできた架空の世界では?
本当は、人間は、死んだらすぐに、自分が生まれた故郷(星)に帰るのでは?
満天に輝く無数ともいえる星々が、きっと、人間の生まれた「場所」なのでは?
そう言う風に考えると、なんとなく腑に落ちるというか、ホッとするのですね。
だから、相撲や出雲や今回の富岡八幡宮の件を、きっかけに、毎月、行こうと決めていた、産土神社にも、もう行くのを止めにいたしました。
さらに、もう、お正月も神社に行くのを止めにします。
というか、「伝統」や「しきたり」に関わるモノコトは、もう一度、日本国民は、真摯に「考える葦」になって、カミカヘル必要があるのではないでしょうか?
本当に、日本人の国民は、「伝統」で守られているのでしょうか?
本当は、日本の国民ではなく、「伝統」に胡坐をかいて、「税金」を食い物にしている人たちのことを、カミカヘル必要があるのでは?
真の日本人が、一番、虐げられているのが、真実でしょうか?
では、真の日本人とは?
決して、「伝統」で生きる人々ではないような…。
こういう「神道」系の事件が多発するということは、そろそろ、「神道」というものも、一度、カミカヘル必要があるのでは?
「神道」が無くなって、困るのは、一体、だれ?
ずっと、ずっと、今だ、「神道」が なかった時代の「日本人」とは?
それが、真の「日本人」では?