直観ひとりごと(15)自分とは何ぞや?
この(15)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(15)
◆自分とは何ぞや?
今日は、自分とは何ぞや? について。
私は、小さい時からずっ~と、なぜ自分は、「三宅麗子」なんだろうって不思議で不思議でたまりませんでした。母親に、何で? 何で? って何度聞いたことか! 母親は、変な子、と内心煩わしくもあり、心配もしていたと思いますが…。
正直、今でも、自分はなぜ、「三宅麗子」という名前なんだろうって思うことはあります。ぼやっとわかったところで、「絶対確信」なんてないのですね。
「三や宅や麗や子」は一生ついて離れない(でも、結婚すれば、名前は変わりますが、それもきっちり組みこまれているし、もって生まれた意識は変わらないと思います。)。
自分が人間だから、きっと、生きている間はなぜ、その名前なのか、わからないのでしょう。人間をやめたとき、霧が晴れるように、魂が晴れるのでしょうか…。 でも、私は死ぬ前に、知りたいのです。自分は何者なのかを…。そのことを解決するために、勉強すればするほど、ますます疑問がわいてきます。
皆さん、それをどうして「心」に納得させているのでしょうか? そんなことは、考えない? どうでもいいこと? 日本人の「基」が気にならない? それも、どうでもいいこと?
物事にこだわって、追求すればするほど、ますますわからなくなってくるのが、正直なところです。自分とは何ぞや、を知りたくて、長い長い旅に出ていますが、まだまだ先は見えません。見えたかな、って思うと、それに反対の説が出てきます。それも一つ二つではないのですね。次から次へと…。10人の研究者がいれば、10通りの説が出てきます。それらを受け取る人間が100人いれば、一体どれほどの解釈になるのでしょうか? そして、またその100人の人が、それぞれの説を唱えれば、ますます増える…。まさに魑魅魍魎となってきます。
ちょうど、心理学の世界がそんな感じがします。心という、あってない、ないようである、ややこしいモノ? コト? を扱うのですから当然でしょう。どれ一つの学説をとってみても、その打ち立てた人間にとっては真実かもしれませんが…。
しかし、本人以外の信じてくれる人間が、たった一人でもいれば、その学説は完全なる誤りではなくなるのも事実です。要は、賛同者が多いか少ないか…。
2対6対2の法則が、この心理学の世界でもなりたつのでしょうか? また多数決が正しいとは限らないのは、政党と同じです。私はず~っと、不思議に思っています。
心理カウンセラーとして認定されるには、その勉強してきた心理学を受け入れるということなので、それはちょっと、恐ろしいことではないかと? だって、人の意見を鵜呑みにしないといけないのですから…。
昔、小学生のころ、算数だけを信用できたこととつながるのでしょうか。しかし、算数でも、負の数字は信用できませんが…。勘があれば、他の科目は、何かウソ臭いと感じるのでしょうが、先生も生徒も、何も感じない!だから、私はいつも劣等生…。自分を知りたくて、また心の平安を得たくて、とうとう大学の禅学科にまで通いましたが、やっぱり、自分とは何ぞや? は悟れませんでした…。
そんな、こんなで、私は、過去同じ組織で、二度に渡って心理学の勉強をして、カウンセラーの資格を取ろうとしたのですが、最後の、最後で、やっぱり取りませんでした…。取得するのは、決して難しかったからではないのですね。身分は保障されて安泰でしょうが、なんか肩書きを手に入れてしまうと、それに関係する一切のモノ、コトに縛られることが怖かったからでしょう。きっと…。
それができる性格なら最初の勉強した時に、そうしていたと思います。それができなかったのは、それも、これも、最後の最後で「三宅麗子」って誰? 何? が解決しなかったからでしょうか…。自分の「本質」って何?
「本質」って何? その後、スピリチュアル系のコトに首を突っ込みましたが、ここでもなかなか、自分とは何ぞや? の確信できる答えはもらえませんでした…。
しかし、全ての勉強は、決して無駄ではないのですね。それらの長い勉強があったから、今は、何となく、「三宅麗子」の本質に迫っているような、感じです。
学説や技法等ではなく、自分が自分で考える(神帰る)ことが一番大切だったのです。私には…。考えるとは頭ですること? そうではなくて、心でする、すなわち、神帰る(カミカエル)。いえ、心でもない、強いて言えば肝で、かな。要するに、五感以外の何か、第六感か? いえ、それが肝、勘かな。
これに長い年月をかけて、気付いたのです。悟りともいうのかな。そんな大層なものでもない、ちょっと違うような気もしますが…。でも悟りは、「心と吾」だから、そうとも言えますが…。まだまだ、サトリには至っていません。そして、「絶対確信」ができたときは、この「三宅麗子」を突きぬけて、ある一点に到達するような、イメージを持っています。
結局、自分の本質って、悟れば、宇宙の中に飲み込まれ、消えてなくなるモノではないでしょうか。本質、本質とこだわっている間は、自分の意識の中にあって、しかし、とらえられないモノなのではないでしょうか。その本質を確かめ、確かめ、さらに確かめる、という行為が、「自分を生きる」ということなのかなあと思っています。その行為が、ぶれないように、「三宅麗子」というキーワードがあるのかなあって…。だから、皆さんにもご自分の名前と、一度、真剣に、対面していただきたいのです。そうすれば、あなたの「本質」の入り口が見えるはずです。きっと…。
ありがとうございます!
笑顔で!
大丈夫!
幸せです! と、唱えましょう。