ことわざカウンセリング(15)「袖振り合うも他生の縁」
この(15)「ことわざカウンセリング」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★ことわざカウンセリング(15)
◆「袖振り合うも他生の縁」
この「ことわざカウンセリング」コーナーは、以前に書いてから、もう早1年が過ぎようとしてしまいました。余り書き進んでおりません。
本当に申し訳ございません。
今回、もう一つの「姓名リーディング」のサイトでこの「袖振り合うも他生の縁」という諺を使ったのですが、使っていながら、「他生の縁」が100%完全には意味が分からなかったので、気になって、辞典などで調べてみましたら…。これは、ブログに書かないと、とイタク感じて、このブログに急遽書く事にした次第です。
その意味には、「前世」とか「宿縁」とか「因縁」とか「業」などという、およそ科学的でない「コトバ」が出てきて、もうびっくり。でも、いくら科学的でないと思っても、その意味を読んだら、スッと腑に落ちるのです。やっぱり、日本人だから、なのでしょうか?
いくら西欧の文化に毒されたといっても、やはり永い年月培った「縄文」の意識は、たった2000年やそこらでは、ビクともしないのでしょうね。
そもそも、「袖振り合うも他生の縁」の「他生」というコトバが、仏法では「前生や来生」と言う意味だそうで、この世以外の「他の世」で生きているコトを指すのでしょう。でも、考えて見れば、お釈迦様は、この世以外に「あの世」があるとははっきりとは語っていないそうなので、これもちょっと変?
仏教思想以前の、「あの世」を認める思想が、日本には、昔からあったのではないでしょうか? それが縄文時代からず~と、仏教が伝来しても、生き続いていたのではないでしょうか?
空海や役行者も、本当の本当は、神道を信じていたそうで、大日如来も本当は天照大御神のコトだそうですよ。やっぱり、日本人は、もう少し、仏教や神道のコトを真剣に勉強したほうがいいのではないでしょうか? でないと、日本人として恥ずかしいし、外国人にバカにされますよね。
そう言う意味では、著書『わたしは誰?』は、日本人として最低の知るべき仏教や古神道のコトを書かせて頂きました。また、その主旨を汲んで頂いた方々からお褒めの言葉も頂戴し、続編をというご要望にもお応えしたいと、「袖振り合うも他生の縁」を強く感じておりますので、今しばらくお待ちくださませ。
ところで、話は変わりますが、私は、昨日は、日本海寄りの元伊勢の籠神社、今日は、大阪市の住吉大社に、今年一年のお礼参りに行ってきました。その帰り、難波の心斎橋筋を何年振りかで歩きましたが、もう、余りの人だかりでびっくりしました。まだ、午前の10時にはなっていないというのにも関わらず、朝の繁華街は、大勢の人が、たこ焼き屋やラーメン店に行列をつくっていたのです。
また、お店自体もすっかり様変わりしていて、たこ焼き屋とラーメン店と焼き肉店と串カツ店ばかりがヤケに目に付き、昔の他の老舗はもうすっかり無くなっておりました。無国籍の街というか、臭いが何とも異様な臭いで、これはもう、昔懐かしい日本の町の匂いではなかったのでした…。
たこ焼きのソースの臭いと、ラーメンの豚骨の臭いと、串焼きの油の臭いと、焼き肉のニンニクの臭いが、異様に混じった、何とも言えない、キツイエグイ臭い…。一度、この街を訪れて嗅いでしまったら、ヤミツキになってしまいそうな、中毒になってしまいそうな、頭や精神を麻痺させてしまいそうな、強烈な臭い…。
ケバケバしい街には、淋しい人々がたむろするようで、歩く人も、行列に並ぶ人の殆ども、日本人というより他国籍の人々のようで、また、贅沢な旅行者というよりも、この街に住みついているような感じで、こうして、街は知らず知らずに日本の街から他国籍の街へと変貌をとげていくのでしょうか?
きっと、昔も、今も、他国籍人の侵入は田舎からではなく、都会の一番の繁華街から、だったのでしょうね。それもこれも、栄枯盛衰、時代の流れというもので、その良し悪しは、誰にも決めつけられない。大阪の「ミナミ」の繁華街はヒドイとは聞いていましたが、これほどとは…。(トホホ…。)
昔ながらの日本の懐かしい匂い、鰹節や鰯の煮干しや昆布の匂いに慣れた人間にとっては、何とも複雑でモノ哀しい気がしてならない! と感じるのは、私だけなのか? カタカムナの「アマウツシ」が悪いほうに影響していて、もう100%他国人の街になるのも時間の問題でしょう…。日本人がそれに気がついたときは、もう「遅かりし由良之助」!
私は、いつまで、この大阪の町に住み続けられるのか、一瞬、そんなことを、師走の朝の喧騒の街を歩きながら、考えさせられた次第です。私の住んでいるキタの新大阪にも、外国人が多く見受けられ、町並みにも変化が見られます。
でもそれも、「袖すり合うも他生の縁」、と言い聞かせて、そういう人々と一緒に生きて行くのも、今の時代では避けられないことなのでしょうね。政府が率先して外国からの人々を歓迎していますので、私たちもこれからは、「袖振り合うも他生の縁」を意識しないといけません。あと10年もすれば、都会は外国人のスミカ、田舎は日本人のスミカと化すのではないでしょうか? それも、また「良し」とすべしことかも。歴史は繰り返す…。
まずは、あの世での「袖振り合うも他生の縁」よりも、この世での「袖振り合うも他生の縁」をしっかりと、意識せねば…。でないと、今度、生まれ変わっても、この日本で生まれるとは限りませんものね。
日本人が、外国人に日本の文化(しきたりや風習)を偉そうに指摘する前に、日本人たるもの、本当に「日本文化」を理解していて、それを外国人に説明できる人はいるのでしょうか? 学校で日本文化を教えないのだから、できないのは「当たり前だのクラッカー」(ちょっと古いか~)
「日本人とは何ぞや?」や「日本文化とは何ぞや?」と、外国人に聞かれた時、さて、あなたは? 日本の文化の一つも、しっかりと答えられますか?
日本文化を外国人に教わらないといけない時代になっているコトに、日本人として、何の心も動きませんか? この事実は、近い近い将来、もう日本人はこの日本には全くいらなくなるという兆し、カミからの「お知らせ」なんですよ。それさえ気が付かない日本人! いずれ、日本にいる外国人が、次の世では日本人として生まれ変わってきて、私たち、この国を蔑ろしている日本人は、紛れもなく次の世は、人間として生きにくい場所で生きねばなりません。それが、宇宙のしくみ…。
日本人よりも日本人らしい外国人が増えています。そういう人々は「日本大好き人間」で、浅はかな日本人と違って、決して、日本が嫌いなんて、言いません。よっぽと、信用が置けますよね。また、尊敬もできますよね。
良心的な日本人と信用できる外国人とが一緒になって、「袖振り合うも他生の縁」で、この日本を創生してほしい、です…。
●※注)「袖振り合うも他生の縁」
この世のことはすべて前世からの宿縁によるものだ。偶然のことではないということ。道で、ふと袖振り合うのも前世からの因縁であるというのである。仏法で「他生」とは前生、来生(前世、来世)のことであるが、「多生」「少」「百生」「五百生」などと置きかえられているものである。「縁」は、人は前世の業による善悪の因をつくりてその果を現世に受けている。現世の業による善悪による因によって来世にその果を受けるもので、このように生死をくりかえして行くものだが、この因と果を結ぶものが縁である。だから、この世に偶然のことはなく、すべて因果の縁で結ばれた、起こるべくして起こり、来るべくして来た必然のことである。「つまづく石も縁の端」である。そして、この縁ということは日本人の日常の生活にまことに縁が深いのである。「御縁のもの」「これは奇縁」「親子の縁」「知遇の縁」「合縁奇縁」「縁は異なもの」など日常使われている。(『ことわざ格言集』文学博士寺川貴四男編/光文書院より)