直観ひとりごと(205)駅伝競走のアクシデントでも、その「本質」は変わらない?
この(205)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(205)
◆駅伝競走のアクシデントでも、その「本質」は変わらない?
今日は、先の10月21日に福岡県で開かれた、女子のプリンセス駅伝でのアクシデントについて、モノコトの「本質」とは何ぞや、に迫りたいと思います。
そのアクシデントとは、3位を走っていた岩谷産業の飯田怜(19)選手が、右脛骨を骨折したにも関わらず、四つんばいになりながらも、第3区の走者へとタスキをつないだことについて、聴衆者たちの間から賛否両論が渦巻きました。
そして、様々な方々が、それぞれにコメントを出されておられます。
私は、それらのコメントを聞いたりして、ちょっと、モノコトの「本質」がないがしろにされているのでは? と感じました。
一体、「駅伝競走」って、何?
「駅伝競走」:「数人が長距離(長いものでは数百キロ)をリレー形式で走り、そのタイム(時間)を競う陸上競技である。」ウィキペディア(Wikipedia)より。
私は、「駅伝」とは、リレーで繋ぐ前に、まず、「二本の足」でしっかりと「走る」ことが、条件だと思います。
それが、まず、ルールの基本だとも。
ですから、今回の飯田選手は、その「二本の足」で、走れなくなった時点で、「失格」だと思います。
もしも、タスキを繋ぐことが「目的」であれば、「杖を」突いて歩いても、或いは、誰かが「オンブ」して歩いても、もっと極論を言えば、「自転車」に乗って走っても、「良し」となります。
でも、それらは、やっぱり、おかしいのです。
ということは、今回の、飯田選手の「行為」は、「二本の足」で走れなくなった時点で、「失格」なのですね。可哀想ですが…。
さらに、審判も「役目」を全うされておりません。審判の役目とは、選手に失格と「宣告」して、「棄権」させることなのです。監督よりも、審判がその「役目」を担うのです。
それができないのならば、審判も「失格」なのですね。審判に宣告する「勇気」がなかったのです。
それが今回は、全うされていなかったのです。そういうきっちりした「役目」というか、「使命」がそれぞれの「モノコト」にはあるのだと存じます。
飯田選手が骨折したことは、今度の飯田選手の人生において、「必要」だったのでしょうね。そこから「何か」を掴み取る「勇気」が…。その前に、「棄権する勇気」が試されていたのでしょうね。
というように、私は、考えます。
「走る」ことがマラソンの「目的」であり、駅伝はそのマラソンにルールを変えただけの、やはり、駅伝と言えども、「走る」競技なのです。
「二本の足」で、「走る」競技です。
「モノコト」の「本質」を見極めれば、複雑に絡む出来事も、超~単純で、簡単なのでは?
これからも、「本質」を見極めてまいります。なんとなれば、私は、「本質のカウンセラー」なんですもん。
ありがとうございました。