直観ひとりごと(223)新元号「令和」に、姓名本質リーダーとして思う!
この(223)「直観ひとりごと」のブログは、カウンセリング歴30余年の大阪の「5時間で1回きり」の「潜在意識の本質と使命とトラウマ」を探る心理カウンセラー&本質セラピスト三宅麗子の投稿頁です。
★直観ひとりごと(223)
◆新元号「令和」に、姓名本質リーダーとして思う!
ブログを書くのは久々です。書きたいことは山ほどありますが、いざ、書こうとパソコンに向かうと、考えがまとまらなくなってしまい、これは、きっと、書くな! という「お知らせ」なのでしょう。
昨日7日は、大阪では、府知事・大阪市長のダブル選が行われてました。
吉村氏と松井氏がそれぞれ完勝し、市議選は過半数には2人たらずで、届きませんでしたが、府議選は過半数を超えました。
この結果もとっても意味深長で、「大阪都構想」に直接存続が問われる大阪市は、ちょっと二の足を踏んだ?
要するに、大阪市民は、吉村知事と松井市長の連携政策は今後も「良し」だが、自分たちが変革の波を、モロかぶるのは、「ちょっとイヤ」、という感じでしょうか? 人間って、「変化」には「弱い」のでしょうね。
それに、やはり、弁が立つだけの人よりも、自分の「意志」を貫ける人が、政治家としては、信頼感が起きるのでしょう。大阪人はそういう意味では、良い意味でシビアです。
しかし、この大阪は、特に、「政教分離」には程遠い土地柄でして、それにも関わらず、組織票の無い「維新の会」が完勝できたというのは、もはや時代の流れは後戻りできないのでしょうか。
まだまだ「大阪都構想」が実現するには、私たち、市民の「覚悟」が必要なのでしょうね。それは、いずれ全都道府県にも関わってくる問題ともいえることしょう。
でも、なにはともあれ、昔の選挙の無かった時代に比べると、私は、曲りなりにも、この選挙が開かれる国に住めることに感謝しております。
さて、今日は、先の4月1日に新しい元号が発表されて、皆さんは、どんな感じをもたれましたか?
私は、「エッ、ウッソ~、ホント~!」という感じ!!! この感じは、とっても複雑な「気持ち」を表わしています。
私は、お断りしておきますが、今の「天皇制」は、決して、反対ではありません。どういう方たちが皇室の人たちであろうが、今現在もこの日本に「天皇制がある」という意味がとっても「尊い」のだと、感じます。
複数の隣国がいろいろ、中傷しておりますが、その国の国民が、現在において、結局、その制度を無視し、蔑ろにて、大切に「継続」してこなかった、廃れさせたという、この「事実」に大きな意味があると存じます。
その国と国民の双方が、特に、国民の総意や民意が、「継続」させるという「意識」がなければ、いかに「国」の権力者が続けたいと思ったところで、続かないものなのですね。たとえ少数が「拒否」しても…。
ゆえに、国民が「天皇制」を認めている間は、まだまだ続くということで、世界から「天皇」が称えられるという意味は、国民が称えられることになっているんですね。
最古の文化と、最新の文化を、融合させている、この日本と日本国民が偉大なのでしょうね。それは、官僚ではなくて、国民なのだという意味を、日本国民自身が、もっと自覚すべきなのでしょう。
また、「天皇制」を突き詰めていけば、「血統」が絡んできますが、もはや「平民」の「血」が入る現在の「皇室」に国民の崇高な「理想」を求めるのは無理なのかもしれません。それでも存続される「意識」が国民にあるのならば、「女性宮家」ナンテいうのではなくて、かつてGHQから剥奪された「皇室」を、シッカリと取り戻せば済むだけなのですね。彼らはキット、剥奪されても、いえ、それだからこそ、それ以上に、気高く、尊く、皇室の「血」を守って、この戦後を生きてきたのではないでしょうか? それを日本人の手で、取り戻すことが、これからも「天皇制」を続ける意志があるかないかを、今全国民が「神」から試されているのでしょうね。日本はやはり、「血」を重要視する国民、というよりも、先祖を強く意識する国民、なのですね。それをする役目が政治家なのではないでしょうか。きっとそれが実行できた政治家は、歴史に名を刻まれ、永遠に称え続けられることでしょうね。
真子さんも佳子さんも(あえてさん付け)皇室の血が1/4しかなく、平民の血が3/4も入っているのだから、平民(国民)として生きたいのは、当たり前ではないでしょうか? 次の次の「天皇」の血は、もはや…。
私たちは、平民の血ではなく、「皇室の血」を敬い、奉りたい、だけなのですね。そのためには、税金が使われてもいいと、十分に納得しているのですね。それが、この小さな国、日本や、そこに生きる日本人が、永遠に生きる「スベ」なのでしょうね。
ゆえに、「天皇家」の人々は、日本だけでなく、世界中から、羨望と、尊敬の眼差しで見られているのですから、今の皇室のゴタゴタは、私たち国民が、とっても恥ずかしいという思いが強く、誰も解決できないことに、何か、精神的な疲れが沈殿していくみたいです。
これも、きっと、昭和天皇が、何かを訴えているのでしょう…。それは、皇室だけでなく、日本人にもいえて、過去に虐げられた先祖の霊の浄化を、今生きている私たちが、キッチリとして差しあげてこそ、先祖の霊や、今生きている私たちの霊も、未来の、新しい時代に向かって、強く羽ばたけるのではないでしょうか? それができれば、もはや、名前や姓名や氏名などから解き放たれて、思うがままに、あるときは、粒子となり、あるときは、波動となって、体も、軽く、軽く、自由に、あの世とこの世を行き来できると、私は強く信じます。
そういう背景を鑑みて、今回の「新元号」の「令和」には、カウンセラーというよりも、姓名リーダーとして、とっても意味深長な感じがいたします。
今回の「令和」は、誰が誰に命令を下すのでしょうか?
それは、人間として生まれた、私たちそれぞれの「直霊(ナオヒ)」が、私たちそれぞれの「意識」に、命令を下すトキ、が新しい「時代」なのですね。
決して、政府や、官僚や、エリート層や、会社の上役や、上司や、家族の父母や、父兄などなど、ではないし、今流行りのAIロボットでもないのですね。
宇宙からの意識を、自分の魂が、とり込んで、それを自分の中の魂に命令する、あるいは、諭す、あるいは、注意する、という、感じでしょうか。宇宙からの自分の直霊(ナオヒ)に背く人間は、きっとこれからの世は、生きにくいことでしょう。
要するに、それはとりもなおさず、自分の良心に背くことは決して許されず、それができた人だけが、あの世とこの世の意識が一体化するという意味なのかも…。
しかし、この「令和」は私の名前の「レイコ」の「レイ」なのに、あまり嬉しくないのは、なぜ?
それは、「令和」の「令」もさることながら、ふりがなの「レイワ」の「レ」の字が、とっても、「曲者」というか、解釈が「難しい」というか、「不可解」な一字だから、なのです。私は自分の、この「レ」で、ずっと悩んできたといっても過言ではありません。
つくづく感じます。ひょっとして、この新元号のために、私は、『カタカムナって何?』を書いて、出版したのかもしれません。
いえ、「書かされた」のかも…。誰にっていえば、それは自分の「直霊」に…。
ところで、まだ数日しか経っていないのに、新元号が「万葉集」を参考に、選ばれたということで、もう早や「万葉集」がブームになっているそうです…。この何かに流されるというか扇動されるという現象が、良くも悪くも、日本人気質なのでしょうね。
私は、丁度、10年前の 2009年9月22日に、直観ひとりごと(12)で、「なぜ学校教育で万葉集や和歌や俳句を教えないの?」を書いておりますが、その当時は、民主党が政権を自民党から奪い取った年で、国民は大いに「何か」を期待したのですが…。
それはともかく、今回初めて、日本の「古典」を参考に、選んだとニュースでありますが、ちょっと、変?
この「令」の読み方は、音読みの「レイ・リョウ(リャウ)」で、訓読みはすぐに思い当たらない。まして「冫(ヒョウ、こおり)」の「冷」が「つめたい」というポピュラーな訓読みなので、「令」もそういう感じを与えます。
しかし、「令」は、「命令する」という意味であり、「律令」の「令(リョウ)」なのですね。これは、まさに、「令」は、中国から渡来した「漢字」で、昔昔は、政治に関わっていた、漢字の理解できる渡来人だけが、利用していた「字」ではなかったか?
ということは、渡来人たちだけが利用していた「字」で、一般の人々には、全く関係のない「字」が「令」だったのでは?
この「令和」の考案者は、大阪大学名誉教授の中西進氏(89)で、「万葉集は半島系渡来人の影響を受けた」と言われるバリバリの「知韓派」だそうです。
それらモロモロを逸らすために、「万葉集」がマスコミでも大きくクローズアップされて、まだ数日なのにも関わらず、それに群がり、踊らされています。流行れば流行るほど、「冷静」に、「冫(こおり)」のように「令」を、「冷ややか」に、「冷めた」目で、見守るべきでしょう。
当日の「号外」が見苦しいほどの奪い合いで、その中には不埒な人間もいて、ネットではその「号外」が5千円以上で売れたそうな…。売る方も売る方ですが、買う人がいるから、奪い合いの醜態を演じさせられるのでは?
真の日本人はこういう国民ではないはずですが…。しかし、日本人は、世界一最高の民族でもあり、また世界一最低の民族でもありという、二種類の人類でもあるそうな…。
さらに、『週刊新潮』(2019年4月11日号)には、【「総理の本懐」に異を唱える「昭和天皇」歌の指南役】という記事があり、昭和天皇の作歌指南役も務められた国学院大学名誉教授の岡野弘彦氏(94)は総理の本懐に異を唱えられているそうです。
【<初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ> 日本最古の歌集『万葉集』巻五の序文を典拠とする「令和」。日本の古典から初選出と政府は喧伝するが、「歌の大和ことばではなく、漢詩的な表現から取られているので。その点は今までと変わらない気もします」 と、昭和天皇の作歌指南役も務めた国学院大学名誉教授の岡野弘彦氏(94)は総理の本懐に異を唱える。 「あの頃は中国の漢詩、漢文に憧れがある時代、西洋にかぶれるのと一緒です。大宰府(序文に続く歌に詠まれた場所)は当時、大陸から漢学が入ってくる場所でした。あの序自体には、そんなに深い読み解くべきものはない。書いた人間が外来文化が好きで、自己満足みたいな表現ですから。(新元号を選ぶにあたって日本の古典に)拠り所が欲しかったんでしょうけど。う~ん」】とあります。
なぜ、皇室に関係の深い岡野氏が考案者に選ばれなかったのでしょうか…。岡野氏は、そのことが影響して、こういうマイナスの談話を話されてのでしょうか…。
それはさておき、この漢字の「令和」はともかく、さらに、発音の「レイワ」の「レ」が、ちょっとこの世的に考えると、大きな誤解を生むかも…。
先にも書きましたように、私の名前は「レイコ」なのですが、この「レ」が、他の字とは、ちょっと違うということが、長年、イタク感じているのですが…。
この「レ」のために、私は、日本語の「言霊」や、カタカムナにも関わっていったのかもしれません。
だから、『カタカムナって、何?《前編》』では、この「レ」について、「第四章「カタカムナのウタヒ」の謎?」の「●謎②-14「声音符」の<レ>の小円の有る無し?(p202)」や、「●<レ>の漢字は「古語辞典」にも無い?(p203)」や、「●「サンカ文字」には<レ>の文字が無い?(p204)」や、「●「サンカ文字」は「サンカ文字」とは言わない?(p205)」や、「●「ラ行」の音は古い時代には無かった?(p205)」や、「●現代は荒れる「ラ行」の時代?(p206)」や、「●波動は「ラ行」の音?(p207)」等々。
また、「●謎②-25「カタカムナ」の「0=ゼロ」とは?(p244)」や、「●「カタカムナのウタヒ」の第五首には「0=ゼロ」が無い?(p245)」や、「●「0(ゼロ)」と「十(ト)」?(p246)」等々。
さらに、「●謎②-26 他の方々の「0=ゼロ」の概念とは?(p252)」や、「●謎②-27「カタカムナ」は「ゼロ」のない「世界」?(p264)」や、「●「カタカムナ」の「0=ゼロ」とは「アマ」?(p265)」や、「●「0=ゼロ」の概念を「肯定」する意味とは?(p268)」や、「●「0=ゼロ」から「原子核」の概念が?(p269)」等々。
「レ」についての疑問(謎)を書かせて頂いたのです。よかったら、『カタカムナって、何?』の《前編》だけでも、お読み頂ければありがたいです。
この「レ」は、カタカムナの発見者、楢崎皐月氏も、相当、手こずったようです。私は、「カタカムナ」の「声音符」や「図象府」は、最初は、楢崎氏の「創作」だと思ったり、いや、違うと思ったりで、出版した後でも、100%ハッキリとは確信が持てなかったのですが、今では、「声音符」や「図象府」は、楢崎氏の「創作」ではないと思っています。それは、この「レ」が示してくれているのようです…。
しかし、カタカムナの発見に至る「カタカムナ物語」や「カタカムナ文明」などは、楢崎氏の完全な「創作」でしょう。たとえ、過去に偉大な文明があったとしても、決して、カタカムナという「名前」などではなかったという意味で…。
だからといって、「カタカムナ」は全く価値のないものでもなく、否定すべきものでもなく、日本人であれば、日本語の原点「ヒフムヨイ~」の字や音や言霊を研究するのには、とっても価値のあるものだと信じています。「カタカムナ」の図象符や声音符を読み解くのが、楢崎氏が解読に利用した「古事記」や「神名」なのでしょう。
そういう意味で、この「レ」は、ちょっと、不思議な「字」なのですね。
それを、証明するために、「カタカムナ」の「図象符」から、この「レ」を読み解きますので、興味のある方は、私の別サイト「姓名本質リーディング」の、ヒト・モノ・コト直感感想!(14)新元号「令和(レイワ)」と他の「元号」を姓名リーディング!→をご覧くださいませ。